GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(15)心の友モンジュルー侯爵夫人

  ヴィオッティの女性関係については釈然としない。 ヴィオッティは生涯結婚していないが、”深い友人関係”にあった女性が2人いた。その一人はマーガレット・チネリーである。 ヴィオッティはロンドンに到着してすぐにウィリアムとマーガレットのチネリー夫妻と知り合いになり、後にチネリー一家とは同じ屋根の下で暮らす間柄となり、マーガレットには自らの死を看取ってもらうことになる。 もう一人の女性として、パリ時代の友人、あるいは同僚といってよいモンジュルー侯爵夫人(後のシャルネイ公爵夫人)、エレーヌ・ド・モンジュルーが”心の友”として名前が出てくる。
  エレーヌ・ド・モンジュルー(Helene de Montgeroult/1764―1836)は18世紀末から19世紀初頭において活躍したピアニスト・作曲家である。 現在でも彼女の作品が演奏されることがある。ヴィオッティより9才年下、リヨン生まれで、子供の頃家族と共にパリに移住してきた。 1776年頃にヒュルマンデル(Nicolas-Joseph Hullmandel)にピアノを学び、その後メユール、グレトリィ、ケルビーニなどが集まる上流社会に仲間入りした。 ヴィオッティはヒュルマンデルとはヴェルサイユ宮殿やパリのサロンでも一緒で親しい友人だったので、彼を通してエレーヌと知り合ったのだろう。 エレーヌ・ド・モンジュルーは1786年にヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第6番をピアノ協奏曲第1番に編曲している。
  パリ市内クレリィ通りの自宅で夜会音楽会を開いていた女流肖像画家のヴィジェー・ルブランは、自身の著書『メモワール』の中で、その音楽会に出席していたヴィオッティとエレーヌを特に取り上げて、二人の演奏が大変すばらしかったと記録している。 それはエレーヌの結婚後間もない時(1784年頃)である。
  ヴィオッティの友人アイマーは二人の”友情”を特別なものと感じていた。 エレーヌはパリ市街から外れたモンモランシー(Montmorency)に家を持っていて、ヴィオッティは1789年頃にはその家を頻繁に訪れていた。 アイマーはヴィオッティと一緒に彼女の家を訪問した際、ヴィオッティとエレーヌの息のあった演奏を聴いて、「二人の掛け合いは技術的にも情感的にも最高の演奏で、感情が一体化した様子は同一の精神が二人に宿っているとしか思えないほどであった」、と述べている。
  1789年から92年にかけてフランス革命の荒波は激しくなった。 1791年10月にヴィオッティとエレーヌは王党派新聞記者のゴーティに激しく攻撃された。 「王妃の恩義を忘れたジャコバン党員のヴァイオリニストがモンジュルーという名の恥知らずの女ピアニストを囲っていて・・・」と誹謗され、二人の関係が注目された。 ヴィオッティはこれには冷静に対応したが、革命からの身の危険を感じて1792年の7月にパリを逃れてロンドンに渡った。 エレーヌも一緒で、ロンドンのヒュルマンデルの家に滞在していたが、エレーヌは12月にフランスに送還され、1793年2月にギロチンにかけられそうになった。 この危機を救ったのはエレーヌの友人で、当時国民衛兵軍楽隊を組織していて、後にパリ・コンセルヴァトワールの初代校長になったサレットであった。 知識人や芸術家に対する裁判では、特別に参加して意見を述べる者が立ち会うことになっていたが、サレットがエレーヌの裁判に出席して、「優秀なピアニストでフランスの財産である」と強く申し立て、その実力を実際に演奏して示したため、エレーヌは解放されて事なきを得た。
  その年、エレーヌは夫と共に夫の赴任先のナポリへ出発した。 当時フランスはオーストリアと戦争状態にあり、二人はイタリアに向かう途中、オーストリア兵に捕らえられマントバで投獄された。 夫のモンジュルー侯爵は病気と疲労で1793年にそこで死亡した。 この苦境を知ったヴィオッティは、母の死後の始末のためにロンドンからイタリアに戻る際、2人に会って勇気付けようと大陸を奔走した。
  1795年10月にナポレオンが現れて総裁政府が設立され、パリに落ち着きが戻った。 エレーヌもパリに戻り、1795年11月にはコンセルヴァトワールのピアノ教授に任命され、最高の待遇で1798年まで務めた。
  ヴィオッティとエレーヌ・ド・モンジュルーとの関係を決定的に示す資料は見当たらない。 それを認めた上でレーモ・ジャゾットは二人が愛人関係にあったと推測している。 これは肯定も否定もできないが、二人の気持ちは全く純粋だったのではないだろうか。 お互いを高く評価し認め合い、心を通わせることで幸福を感じていたのではないだろうか。 ヴィオッティはロンドンでチネリー一家と家族の一員のような付き合いをし、同じ家で暮らすることになる。 マーガレットの夫のウィリアムや子供たちとヴィオッティの関係も極めて良好であった。 ヴィオッティとマーガレットの関係も理解し難いが、1793年に、モンジュルー夫妻が旅行中に災難に会った際、マーガレットはヴィオッティと一緒にモンジュルー夫妻を気遣っていたことから、ヴィオッティの純粋な心が読み取れる。
  最近(2009年以降)新しい事実が明らかにされた。 ヴィオッティの研究で第一人者のDenise Yimの論文によると、1793年にヴィオッティがイタリア方面を奔走していたのはエレーヌのためだけではなく、エレーヌの愛人のユーグ=ベルナーレ・マレ(Hugues-Bernard Maret)を支援するためだった。 マレはエレーヌの一才年上、当時は忠実な君主制支持者で、後にナポレオンの総裁政府の要職を勤めた政治家である。 論文の中に添付されたヴィオッティからマレに宛てた手紙は、エレーヌがマレと恋愛関係にあることを示している。 また文面から、ヴィオッティは、恋愛関係にあるマレとエレーヌ二人と親密な関係にあったことがわかる。 ヴィオッティはロンドンではチネリ夫妻と深い付き合いとなるが、3人の関係は同じ構図のように見えてくる。
  エレーヌがパリで革命軍による処刑から逃れられた経緯を知るうえで興味深い情報がでてきた。  エレーヌはピアノ演奏により処刑を免れたが、これについての逸話がある。「法廷で裁判官はエレーヌにラ・マルセイエーズを弾くように指示した。エレーヌは求められた一曲を弾き終わった後、さらに即興的にいくつかの変奏を繰り返した。その演奏がすばらしく、法廷は熱狂し、ラ・マルセイエーズを歌いだした。裁判官はエレーヌを愛国者として称えて釈放した。」  ところで最近、フランス国歌のラ・マルセイエーズの曲は、ヴィオッティ作曲の“テーマと変奏”のテーマ部分と同じであることを示すヴィオッティの自筆譜がグイード・リモンダによって公表された( ヴィオッティとフランス国歌)。 ヴィオッティの“テーマと変奏”はラ・マルセイエーズより11年前、1781年に作曲されていて、テーマと8つの変奏からなる。 エレーヌ・ド・モンジュルーはヴィオッティと一緒に頻繁に演奏を楽しんでいたので、ラ・マルセイエーズと同じ“テーマ”とその変奏をすでに何度も演奏していたことが容易に推測できる。

参考文献
菊池修、 ”ヴィオッティ”、慧文社
(2009).
Denis Yim, Ninteen-Century Music Review, Vol.15, pp.163-187(2018).
Guido Rimonda, Pamphlet in CD, DECCA 481 0343 (2013).
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