GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
ラ・マルセイエーズとして有名なフランス国歌は、イタリア人作曲家ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティが1781年に作曲した「主題と変奏曲」を使って作られた?
ヴィオッティとフランス国歌
ラ・マルセイエーズは1792年にストラスブールでルジェ・ド・リール(Rouget de Lisle)により
戦争讃歌として作曲され、後にフランス国歌となった、というのが定説である。
一方、昨年(2013年)DECCA(481 0343)から発売されたヴィオッティのヴァイオリン協奏曲を収めたCDで、第1曲目
に収められている「Tema e Variazioni for violin and orchestra(ヴァイオリンとオーケストラのための主題と変奏曲)」
の主題はラ・マルセイエーズそのものであり、
そのCDのパンフレットに掲載されている自筆譜には特色あるヴィオッティのサインの下に1781年3月2日の日付けがある。
それはこの曲がラ・マルセイエーズよりも11年も前に作曲されたことを示している。
このCDを出したのは、イタリアのトリノ出身でヴィオッティ研究とヴァイオリン演奏で著名なグイード・リモンダ(Guido Rimonda)
で、自身のヴァイオリン独奏で、カメラータ・ドゥカーレ・オーケストラを指揮している。この曲は主題と8つの変奏からなり、
ヴァイオリンが自在に活躍する曲で、バックのオーボエやヴァイオリン、ファゴットとの掛け合いも楽しい。
リモンダのヴァイオリン演奏がこれまた秀逸である。
1781年3月頃、ヴィオッティはプニャー二(Gaetano Pugnani)と演奏旅行中で、サンクトペテルブルクに滞在していた
と思われる。そして1782年の3月にパリのコンセール・スピリチュエル演奏会で自身のヴァイオリン協奏曲を弾いて大成功を収め、
ヴァイオリン演奏で若きヴァイオリニスト達に強い影響を与えた。
1781年のヴィオッティの作品がどのような経路でルジェ・ド・リールに渡ったのかは不明である。1782年のパリでの成功以降
ヴィオッティのことはヨーロッパ中で知られていたと思われる。たとえば、ベートーベンのヴァイオリン協奏曲にヴィオッティの影響が
見られることは良く知られている。パガニーニはヴァイオリンとギターのためのソナタ作品3の4でヴィオッティのヴァイオリン協奏曲
第25番の第3楽章のテーマをそのまま使用している。モーツァルトはヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第16番に手を加えている(KV470a)。
さらに、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番(1786年作曲)第1楽章の第2主題は、今問題にしているラ・マルセイエーズ、
つまりヴィオッティの主題に似ているとリモンダは指摘している。
これらの事実は、ヴィオッティの作品が当時ヨーロッパで広く知れ渡っていたことを意味するもので、
多くの音楽家がヴィオッティの「主題と変奏曲」を手に入れることが可能であったことを示唆している。
ルジェ・ド・リールはストラスブールでイグナツ・プライエル(Ignaz Pleyel)と知り合いであった。
プライエルはハイドンの弟子で、作曲家・ヴァイオリン奏者である。後にパリで音楽出版の仕事を立ち上げてヴィオッティの作品も
出版することになるが、パリに来たのは1795年以降のことで、1792年当時は教会の楽長としてストラスブールで作曲活動をしていた。
ルジェ・ド・リールとプライエルの2人はプライエルが作った曲にルジェ・ド・リールが歌詞をつける形で共同で軍隊用の讃歌を1791年に発表している。
ルジェ・ド・リールはプライエルから「主題と変奏曲」の楽譜を手に入れたことも考えられる。
戦争讃歌の作曲を依頼されたルジェ・ド・リールがラ・マルセイエーズを一晩のうちに作詞・作曲したといわれているが、
実際にはヴィオッティの曲に詞をつけて完成させたものと思われる。
ルジェ・ド・リールとラ・マルセイエーズに関する著作・評論が極めて数多く存在する。これらは、
ラ・マルセイエーズはヴィオッティの「主題と変奏曲」のテーマを使ったものであるという事実が広まるにつれて、
どのように影響を受けるだろうか。また、フランス国歌を作曲したのはフランス人ではないという点に注目が集まるのか、
大変興味深い。
「主題と変奏曲」はヴィオッティの曲らしく、ヴァイオリン演奏に魅力あふれる明るく楽しい曲である。
多くの人が聴いて、ヴァイオリン奏法の父とよばれているヴィオッティの業績が再認識されることが望まれる。
グイード・リモンダとカメラータ・ドゥカーレ
カメラータ・ドゥカーレ・オーケストラ(Orchestra Camerata Ducale)は1992年にヴァイオリニストのグイード・リモンダ(Guido Rimonda)とピアニストのクリスティーナ・カンツィアーニ(Cristina Canziani)によって設立された。
このアンサンブルの名前は、18世紀のトリノにおいてソミス、プニャーニ、 ヴィオッティを擁したヴァイオリンのピエモンテ楽派の前身で、15世紀に名声を得たサヴォイア家アメデーオ8世の公爵音楽隊「Cappella Ducale」からとったものである。
ヴィヴァルディと"I Musici"、タルティーニと"I Solisti Veneti"、ヘンデルと"The English Concert"など、特定の音楽家と結びつける適切な名前をつけた演奏家グループが結成されることがよくあるが、カメラータ・ドゥカーレもこの例であり、この場合の特定の音楽家は勿論ヴィオッティである。
グイード・リモンダはトリノの北のサルッツォ(Saluzzo)に生まれのヴァイオリン奏者。オーケストラ・カメラータ・ドゥカーレの指揮者。
ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲全曲のCD録音を続けている。
クリスティーナ・カンツィアーニはトリエステ生まれのピアニスト。オーケストラ・カメラータ・ドゥカーレの芸術監督として音楽活動を牽引している。
カメラータ・ドゥカーレはヴェルチェッリ市で「ヨーロッパ宮廷におけるヴェルチェッリ出身のヴァイオリニスト、ヴィオッティ」と名付けた定期演奏会を行ってきた。
この演奏会は6月から翌年にかけて、ヴェルチェッリ市の市民劇場や市内の教会で行われてきた。
2004年の9月24日の夜にサン・クリストフォロ教会で行われたコンサートでは、ピエモンテ派の創始者のソミスのヴァイオリン協奏曲、
ソミスの小品を2曲、ヴィオッティの協奏曲第7番、それにプニャーニの作品をクライスラーが編曲した「前奏曲とアレグロ」が演奏された。
いずれもピエモンテ派のヴァイオリニストの作品であった。夜9時の開演が近くなると、教会の前に人が集まりだし、
300〜400人の聴衆が木製の席を占める。ほとんど地元の人であり、年配の人が多いが若い人も夫婦や子供づれで集まる。
娯楽施設の少ない地方の中都市では貴重なイベントとなっている。演奏曲について指揮者リモンダの簡単な解説があって演奏が始まる。
アンコールにも応える。演奏家たちとそれを支える聴衆とが一体となり音楽を楽しむ光景は気持ちのよいもので、
クラッシク音楽の伝統国ならではの光景である。この演奏会は、"Viotti Festival"と名を変えてヴェルチェッリ市で
続けられている。
(参考: 菊池修 著、ヴィオッティ、慧文社、2009)
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