GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(30)ヴィオッティと巨匠たち

  ハイドン(Franz Joseph Haydn、1732−1809)はヴィオッティより20才以上年上だが、晩年にロンドンに滞在した時、ヴィオッティと一緒に活動した。 ヴィオッティとは実際に面識があり、同僚として仕事をし、お互いに影響を与えあった。 ロンドンでのヴィオッティの活動は1793年と1794年のハノーヴァー・スクエア・ルームズにおけるザロモン・コンサートと、その後のキングズ劇場でのオペラ・コンサートが中心であった。 ハイドンは1791年と1794年の2回ロンドンを訪問しているが、ヴィオッティはハイドンの2度目の訪問の際にザロモン・コンサートにハイドンと一緒に出演した。 また、ヴィオッティは2回のハイドン慈善演奏会に賛助演奏している。二人はザロモン・コンサートの仲間同士として親交があった。
  ヴィオッティが監督した1795年のキングズ劇場でのオペラ・コンサートにはハイドンも参加した。 このオペラ・コンサートでヴィオッティは前例のない60人規模のオーケストラを編成し、ハイドンの晩年の交響曲に直接接する幸運に恵まれた。 ヴィオッティがパリにいた1780年代にコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックという団体が交響曲や協奏曲を演奏していた。 ハイドンのパリ交響曲(82-87番)はこの団体に依頼されて作曲された。ヴィオッティはこの団体の会員であり、しばしばコンサートの指揮をとっていた。 パリ時代にヴィオッティはすでにハイドンの音楽を知っていたと思われるが、ハイドンの交響曲が大成功するのを目の当たりに見たこともあって、ヴィオッティのロンドンでのヴァイオリン協奏曲にはハイドンの交響曲的スタイルの影響が見られる。
  モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart、1756-1791)は父親のレオポルトと一緒に1771年に2週間ほどトリノを訪れている。 1771年といえばヴィオッティとモーツァルトは共に15歳で、この若き2人はヴィオッティが当時住んでいたダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家の宮殿で話を交わしたのだろうか。 ダル・ポッツォ家のヴォゲーラ侯爵夫人は訪問者があれば自分の館に招待して個人的なコンサートを開いていたので、これは大いに可能性のあることだが、証拠は見当たらない。
  ヴィオッティとモーツァルトとの関連を示す事柄として、モーツァルトの作品『ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第16番ホ短調のためのトランペットとティンパニ声部、K470a』がある。 これは1785年ごろウィーンの音楽会のために、モーツァルトがヴィオッティの協奏曲第16番にトランペットとティンパニ部を書き加えて楽器編成を豊かにしたものである。 当然そこで演奏されただろう。
  モーツァルトのヘ長調のピアノ協奏曲19番(K459)の第1楽章は、ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲の第1楽章みられる行進曲的な歩調、リズム、厳粛さの影響を受けていると言われている。 またピアノ協奏曲25番の第1楽章の第2主題はヴィオッティが1781年に作曲した「主題と変奏」の主題と似ているとの指摘もある。 これらの事柄は、モーツァルトがヴィオッティをよく知っていて、その作品に興味を持っていたことを示している。
  ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、1770-1827)のヴァイオリン協奏曲とヴィオッティ、ロード、クロイツェルらのフランス派の作品との関連性は多くの研究者が取り上げている課題である。 ヴィオッティはコレッリから始まるイタリアのヴァイオリン協奏曲を発展させ、想像力に富んだ作品と演奏を披露した。 これを継承したロードやクロイツェルらの協奏曲は当時のヴァイオリニストにとっては主要な音楽メニューであり、フランス派の影響は極めて大きく、その様式や技術はヨーロッパ中に広まっていった。 そのため、19世紀の前半には、ヴァイオリン協奏曲を作曲しようとする作曲家はヴィオッティの作品に精通していなければならなかった。 これはベートーヴェンにもいえることで、ベートーヴェンは弦楽曲の作曲ではウィーンを訪問したクロイツェルやロードからヒントを得ていた。 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のモデルとして、ヴィオッティとフランス派の作品が役に立っていることは広く認められている。
  シュワルツはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲とヴィオッティの協奏曲との類似性を具体的に指摘している。 そこでは広く指摘されているヴィオッティの22番のアダージョとベートーヴェンのラルゲットの類似性の他に、ベートーヴェンの第1・3楽章とヴィオッティの協奏曲のヴァイオリンパートを比較している。 そして、それらの間に見られる類似性から、ヴァイオリンの技術的な取り扱いにおいて、ベートーヴェンは当時ヴァイオリンの支配的な様式だったヴィオッティ、ロード、クロイツェルの影響を受けている指摘している。
  メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn、1809-1847)はバイヨとロードを通してヴィオッティの影響を受けている。 バイヨとメンデルスゾーンは音楽家としての親交があり、バイヨがヴァイオリン、メンデルスゾーンがヴィオラを受け持って弦楽四重奏を楽しんでいた。 メンデルスゾーンは有名なホ短調のヴァイオリン協奏曲の他に少年時代にニ短調のヴァイオリン協奏曲を作曲している。 この曲は非常に整った古典的香りのする作品で、ヴィオッティと後継者のロードやバイヨなどに代表されるフランス派の影響が見られる。
  メンデルスゾーンが企画した歴史的な意味を持つ最初の連続演奏会がライプチヒで1837−38年のシーズンに行われた。 100年ほど続いたオーケストラの歴史を振り返り、その伝統の継続性を検証しようとする試みであった。 ハイドンの交響曲、モーツァルトのピアノ協奏曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、田園交響曲などが演奏された。 そのときのプログラムによると、コンサートは2月15日から1週間ごとに4回行われた。 その第1回目のコンサートでは、バッハ、ヘンデル、グルックの作品に続いて、最終曲目としてヴィオッティのヴァイオリン協奏曲が取り上げられていた。 ここにヴィオッティの音楽に対するメンデルスゾーンの深い想いが見て取れる。
  ブラームス(Johannes Brahms、1833-1897)はヴィオッティと生きた時期が重ならない。 ブラームスが活動した時期にはヴィオッティの作品はパリ音楽院で演奏される程度となり、演奏会から消えて音楽愛好家たちから忘れられかけていた。 それにも拘らずブラームスはヴィオッティのヴァイオリン協奏曲22番イ短調に注目し、そのすばらしさを褒めたてている。 「私はヴィオッティのイ短調の協奏曲を特に気に入っています。ヨアヒムはこの曲を私のために選んでくれたのでしょう。 この曲は驚くほど自由な創造性を持った光り輝く作品で、即興曲のように聞こえるが、実際には見事な方法で設計され、作り上げられています。 一般の人々がモーツァルトの協奏曲やヴィオッティのこの曲のような最高の作品を理解せず、敬意を表さないお陰で、我々のような者が生き残れて有名になれているのです。」 これはブラームスが1878年にクララ・シューマンに手紙を書いて、忘れられかけていたヴィオッティが作曲したヴァイオリン協奏曲に陶酔している様子を表したものである。
  ブラームスはヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲を作曲している時ヴィオッティの協奏曲を念頭に置いていたようだ。 この二重協奏曲はリズムにおいてヴィオッティの協奏曲との関連が指摘されている。

参考文献
菊池修 ”ヴィオッティ” 慧文社
 (2009).
B. Schwarz, “Beethoven and the French violin school”, The Musical Qarterly, 44(1958), 443-447.
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