GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(29)ヴィオッティの演奏
1782年に26歳のイタリア人ヴィオッティはパリでデビューを果たしたが、高度な技巧には慣れっこになっていた聴衆を驚かせたのは彼の雄大で力強いボーイングであり、表情豊かな音色であった。
ヴィオッティは聴衆たちに、「それまで出会ったこともないヴァイオリニスト」という印象を与えたに違いない。
彼はこの1回の演奏で偉大な達人と認められ、ヨーロッパ第1のヴァイオリニストの地位を獲得した。
ヴィオッティはほとんど独力で1780年代におけるヴァイオリン演奏の方向性を決めたといえる。
彼の演奏の特徴をつかむため、当時の新聞や雑誌の批評に見られた演奏の特色を列挙してみよう。
- 驚くほど良質な音色のアダージョ
- 美しく力強い音色、滑らかさ、純粋さ、光と影
- 極めて難しいパッセージに対する容易く、正確で、明瞭な演奏
- 輝かしいアレグロ、エネルギーと優雅さの融合
- 歌うような優雅なレガート
- 興奮を呼び起こし、音に魂を与え、感情を虜にする演奏
これらのキーワードから導かれるヴィオッティの演奏の特徴は、「美しく力強くそして表情豊かな音色、正確で優雅な技術、上品なアダージョなどにより、聴くものの魂を刺激して感動を与える」といえる。
演奏の正確さ、高い技術を作品の構成に持ち込んで表情豊かなトーンを作り出し、心を揺さぶる音楽を作り上げている。
すでにロマン主義的要素が含まれていたことをはっきりと意味している。
ヴィオッティの演奏スタイルは、力強い輝かしさを真摯で情熱的な表現と調和させながら、前期古典主義からの転換を図っている。
彼の演奏と彼の音楽は幅広い年代のヴァイオリニストたちに影響を与えた。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の中にもヴィオッティのスタイルを意識した形跡が見られる。
18世紀後半はヴァイオリン楽器自身の変革の時代でもあった。
演奏の場が宮廷の広間から公共のコンサート・ホールへと移り、大きな音量と表情豊かな演奏を行うためのヴァイオリンが必要となり、ヴァイオリン製作者たちはこの要求に応えようと努力した。
1780年代にはフランソワ・トゥルトによる近代ヴァイオリン弓の完成が見られた。
トゥルト弓の完成にはヴィオッティが関わりあっていたと言い伝えられている。
ストラディヴァリのヴァイオリンとトゥルト弓がヴィオッティの演奏を一層際立たせ、アダージョ演奏の気品あるカンタービレで聴衆の心を捉えたことは間違いない。
ヴィオッティは教師としては”刺激と霊感”を与えるという形で教育が行われ、レッスン形式は取っていなかった。
ヴィオッティの主要な門下生はピエール・バイヨ、ピエール・ロード、ロドルフ・クロイツェルである。
この3人は後にパリ・コンセルヴァトワールでヴァイオリンの教授として同じ教育方針に沿って学生達を教育したこと、年齢とその時代の経歴が似ていたこと、などによりお互いがしっかりと結ばれていた。
ヴィオッティの影響はこの3人を中心に、彼の生徒と弟子たちを通してたちまちのうちにヨーロッパ中に広がり、ヴィオッティはヴァイオリン演奏の新しい楽派の創始者として認められた。
ヴィオッティのボーイング・スタイルは、ロード、クロイツェル、バイヨなどに代表されるフランス派からベルギー、オーストリア、ハンガリー、ドイツへと広がる”ヴィオッティ派”に受け継がれ、19世紀初頭の20年の間、ヨーロッパ中のヴァイオリン演奏に大きな影響を及ぼした。
1811年7月3日のドイツ音楽雑誌にワルシャワの音楽事情を伝える記事が掲載されているが、その中で「演奏したヴァイオリニストはヴィオッティの弟子でない者も皆ヴィオッティのスタイルで演奏していた」と報告していた。
また、ヴィオッティ派のボーイングについては1825年の音楽専門誌に「弓を特徴的に使用する点において優れていて、その方法は今日の有名なほとんどすべてのヴァイオリニストが多かれ少なかれ採用している」と指摘されている。
フォンタネット・ポ村役場の入り口にに掲げられたヴィオッティのレリーフ
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