GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(27)晩年のヴィオッティ

  マーガレット・チネリーはギルウェル・パークからロンドンに戻って来た当初はマンチェスター・スクエアのチャールズ通り10番地に住んでいたが、 1817年6月よりポートマン・スクエアの北西のモンタギュー(Montague/現在はMontagu)通り17番地に広い家を買ってヴィオッティ、息子のジョージ、それに姪と義理の妹の2人の女性たちと共に移り住んた。 ヴィオッティがオペラ座の監督に任命された1819年にはマーガレットはパリ郊外のシャティヨンに家を購入し、シャティヨンとモンタギュー通りの家とを行き来する生活をしていた。
  ヴィオッティは1821年11月にオペラ座監督の職を辞任した頃、パリ市内ではグランジュ・バトリエール通り3番地に宿泊していたが、マーガレットらがロンドンのモンタギュー通り17番地の家に戻っていたため、ヴィオッティもまもなくパリを引き上げてロンドンに戻った。
  1822年の6月頃にはマーガレットとヴィオッティは再びパリのシャティヨンに戻ってマーガレットの夫のウィリアムと一緒に静養していた。 この頃であろうか、ヴィオッティは自分の死後の事を考えて遺書をしたためた。 1822年12月13日付けの遺言書はロンドンの英国王立音楽大学に保存されている。

  ”パリにて、1822年12月13日”とタイトル”遺言書”に続いて、「我が創造主の御前で、私は自分の不幸な人生を貴方に報告し、遺言いたします。・・・」で始まっている。 絶望的な気分で遺言書をしたためる重苦しい雰囲気が漂っている。 「財産を残すことができないばかりか、ワイン商売によりチネリー夫人に多くの借財を残して死ぬ身が自分の魂を苛んでいる。 私がこの世に持っている全てのものを売却して、チネリー夫人に渡してください。 私の埋葬にはお金を使わないでください」とチネリー夫人に対する自分の不甲斐なさで死が近い自分を攻め立てている。 それでも、「たとえ私が負債を返済できなくても、彼女は不幸な死を迎えた私の魂の安息を祈ってくれると信じています」と、マーガレットの変わらぬ愛を信じて自らの心を安らかにしている。
  マーガレットは1824年にヴィオッティが死を迎える直前にはモンタギュー通りの家を売却する目的で近くのアッパー・バークレー通り5番地に借家住まいをすることにした。 ヴィオッティは1824年3月3日にこの家で息を引き取った。 ヴィオッティの死はモーニング・クロニクル紙に簡単に報じられた。 「有名なヴァイオリニストのヴィオッティ氏が亡くなられましたことを謹んで報告します。 氏は少しの間患った後、今月3日ロンドンで69歳で亡くなりました。ヴィオッティ氏はピエモンテの生まれでした。」
  小さな農村に生まれた少年がトリノの宮殿に引き取られ才能を伸ばし、ヨーロッパ最高のヴァイオリニストに成長し、新しいヴァイオリン演奏法を広める役割を果たした。 その一方で、フランス革命の波をまともに被り、真っ直ぐではあるが不器用な対応により様々な不幸を呼び込んで失意のもとに最期を迎えた。 ヴィオッティは音楽活動に専念し、恵まれた才能を十分に発揮すれば、広く歴史に名を残すことが出来ただろう、という考えもある。 しかし、ヴィオッティは公の場での活動よりも、プライベートで家庭的な生活を望んでいたようだ。 チネリー一家との心温まる生活の中で生涯の多くを送れたことは幸せであったろう。

  ヴィオッティの葬儀は1824年3月11日にマリルボンの教区教会であるセント・マリルボン教会で行われた。 遺体はパディントン・ストリート(現在のパディントン・ストリート・ガーデンズ)の地下納体室に埋葬された。 しかし、19世紀末までにロンドン市の人口が急増し、墓の収容能力が飽和し、多くの骨が納骨堂に移された。 ヴィオッティの墓は存在しない。パディントン・ストリート・ガーデンズにある記念碑といくつかの石棺が往時を偲ぶ手がかりである。
  ヴィオッティの最期の住居となったアッパー・バークレー通り5番地付近は、建物が取り壊されて、その跡地には現在大きなホテルが建っている。 一方、アッパー・バークレー通りから北に入るモンタギュー通りの建物は当時の家並みを残している。 1819年のロンドン市街地図モンタギュー通りにある建物の番地を現在の建物と比較すると、現在の番地はほぼ昔のまま残っている。 唯一変わっているのは、嘗ての16番地、ヴィオッティの住んでいた17番地、そして18番地の3つの建物がまとめられて一つの建物となり、その建物に16番地のプレートがつけられている。


参考文献 菊池修 著 ”ヴィオッティ” 慧文社 (2009).
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