GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(26)パリオペラ座の監督に就任
ヴィオッティは1819年12月にパリ・オペラ座(パリ国立オペラ、当時の王立音楽アカデミー)の監督となった。
すでに60才を過ぎ、ロンドンで平穏に暮らしすことを望んでいたに違いないヴィオッティにとって、このオペラ座監督の地位を全うするためには苦労が多かった。
しかし彼の経済状態がそうせざるを得なかった。
ヴィオッティとチャールズ・スミス共同のワイン商売は1816年頃から雲行きが怪しくなり、その経済状態はどんどん悪化し1818年に倒産した。
マーガレット・チネリーはこのワイン商売に多額の資金を投じていたので、ヴィオッティはなんとしてもその負債を弁済することを考え、そのためには何でもしようという状況にあった。
当時のオペラ座はリッシュリュー通りのモンタンシェ劇場で活動していたが、監督ペルシュイ(Persuis)は病気のため1819年10月に退職願を出していたので、ヴィオッティはその後任として自分を推薦する手紙を関係者に送って売り込んだ。
1789年にヴィオッティがパリのチュイリュリー宮殿内に組織したテアトル・ド・ムッシューは”王弟陛下の劇団”の意味であるが、この王弟はルイ16世の弟のプロヴァンス伯爵であった。
プロヴァンス伯爵はヴィオッティがヴェルサイユ宮殿でマリー・アントワネットの専属音楽家になっていた時、ヴィオッティの美しい器楽作品に共感を抱いていた。
そしてヴィオッティがオーティと共同でチュイリュリー宮殿内にテアトル・ド・ムッシューを創設して劇場支配人としての第一歩を踏み出した際に大きな援助を行った。
ヴィオッティがフランス革命の中、貴族との強い繋がりを表している”王弟劇団”という名前をフェドー劇場でも敢えて付けていたことを考えると、ヴィオッティとプロヴァンス伯爵との絆が大変強かったことがわかる。
王政復古の後、ヴィオッティがオペラ座監督の地位を望んだとき、プロヴァンス伯爵つまりルイ18世となっていた国王の影響が働いたと考えるのは唐突ではないだろう。
ヴィオッティは1819年10月30日付けで年俸1万2千フラン、住居費3千フランの条件でオペラ座の芸術監督の地位を約束する正式の通知を受け取り、1820年からの活動に向けて準備を始めたが、1819年12月21日にペルシュイが死亡したため、その日から活動を開始した。
しかし、ヴィオッティの幸運は長続きしなかった。
ヴィオッティがパリ・オペラ座の監督の地位を得てから2ヶ月とたたないうちに大きなスキャンダルがもちあがった。
当時リシュリュー通りにあったオペラ座劇場(モンタンシェ劇場)の入り口でオペラ鑑賞に来ていたベリー公爵が暗殺される事件が起こったため、ヴィオッティの責任を問う声が広がった。
それは1820年2月13日のことである。
ルイ18世の甥のベリー公爵は、オペラ公演中に妊娠中の妻を送るため馬車のところまで付き添ってきた。
そして再びオペラ座に入館しようとした際に暴漢に刺され、夜明け前に命を絶った。
ベリー公爵はフランス王位継承者であったため、彼が暗殺されたことはフランス政府にとって重大な結果をもたらし、オペラ座の管理に激震を与えた。
モンタンシェ劇場の建物は即座に廃棄処分され、建物を占有している者たちは追い出された。
パリの全ての劇場は喪に服して10日間閉鎖された。
そして、オペラ座が次のオペラを上演できるようになるまでに2ヶ月を要した。
その後オペラ座はル・ペルティエ通りに新しい劇場ができるまで、狭いファヴァール劇場とルヴォア劇場に移された。
事件当日、ヴィオッティはロンドンに出向いており、ヴィオッティの義理の弟(2度目の母親の子)のアンドレアがヴィオッティの代理を務めていた。
アンドレアはナポレオン軍においてパリ共和国衛兵隊の近衛兵として功績を上げ、レジオンドヌール勲章を受けていて、パリではヴィオッティの仕事を助けていた。
ヴィオッティはロンドン・フィルハーモニック教会のコンサートでシューポアを聴いたりして不在だったため直接の批判を受けることは免れたが、事件後もロンドンにとどまり早急にパリに戻って事後処理をしなかったことが批判された。
オペラ座の管理は財政難に加えて監督の力が弱く、思うようにキャストを集めることができなかった。
オペラ座の監督は大臣や国王自身の思惑によりたくみに操作されている傀儡であった。そのような悩みに加えてベリー公爵の事件が重なった。
更に一緒に生活していたチネリー家族がロンドンに戻ったため、ヴィオッティが一人暮らしをするようになり、老齢のヴィオッティは精神的にも落ち込んで、健康にも深刻な影響がでていた。
新しいオペラ座は1821年8月にル・ペルティエ通りに完成したが、ヴィオッティはすでにオペラ座監督の地位を辞任するよう圧力を受けていた。
彼の健康は悪化し、経済状態と精神状態は混乱状態になり、1821年11月にオペラ座監督を辞任した。
参考文献 菊池修 著 ”ヴィオッティ” 慧文社 (2009).
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