GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(25)ロンドン・フィルハーモニック協会の設立と活動

  ロンドンにおける公共性のあるプロのオーケストラ協会として、ロンドン・フィルハーモニック協会(現在のロイヤル・フィルハーモニック協会)が1813年に設立されたが、ヴィオッティはこの協会の設立と初期の活動に参画していた。
  18世紀末のロンドンではコンサートが盛んに開催されていたが、1800年代に入ると、ロンドンにおける公共での音楽活動は比較的不活発であった。 1810年代に入って、音楽家たちの間にかつてのザロモン・コンサートのような定期的なコンサートを企画しようとする機運が出てきた。 そのための実力ある恒常的なオーケストラ協会を設立したいと望むようになっていた。
  1813年1月24日に、ピアニストのチャールズ・ニート、ピアニストのバプチスト・クラーマー、ヴァイオリニストのフランツ・クラーマー、弁護士のヘンリー・ダンス、それに歌手のフィリップ・アントニー・コッリの5人がダンスの家に集まって協会の設立を企画したとされている。 この日がロンドン・フィルハーモニック協会の設立日となっている。
  ロンドン・フィルハーモニック協会は、会の運営を行う30人の会員と、会員の予備軍である25人の準会員でスタートした。 30の正会員には先の5人のうち協会の初代事務局長となったヘンリー・ダンスを除く4人の他、ムツィオ・クレメンティ、ヨハン・ペーター・ザロモン、それにヴィオッティなどが含まれ、ヴィオッティも正会員の一人として協会の設立に貢献した。
  ロンドン・フィルハーモニック協会の最初の演奏会は1813年の3月8日に当時オックスフォード通りとアーガイル通りの交わる角にあったアーガイル・ルームズで開催され、ケルビーニの「アナクレオン序曲」で幕をあけた。 この記念すべき演奏会でザロモンが”リーダー”として指揮を務め、クレメンティが”ピアノフォルテ”としてピアノから楽譜チェックを担当した。 ベートーヴェンの交響曲やモーツァルトの弦楽四重奏曲も演奏された。 ロンドン・フィルハーモニック協会は上質の音楽を提供することを目ざし、全楽器を用いる音楽と、少なくとも3つ以上の楽器を用いる器楽曲を演奏する事にしていた。 その為、しばらくの間、協奏曲、独奏曲、二重奏曲は演奏曲目から除かれた。

  協会設立の1813年にコンサートは3月から6月にかけて8回開催された。 この年の5月17日の第5回演奏会のプログラムをみると、ベートーヴェンやモーツァルトの弦楽四重奏曲が演奏される中、ヴィオッティが作曲した弦楽四重奏曲も曲目に取り上げられ、ヴィオッティ自身もクァルテットの一員として演奏し、実に15年間の空白の後、ロンドンの公共での演奏会場に戻ってきた。 この日の演奏会でヴィオッティは全体の指揮者も務めた。 ヴィオッティが担当した”リーダー”はコンサート・マスターとして指揮者の役目を担い、クレメンティの”ピアノフォルテ”は全部の楽譜をみてチェックする指揮者の役目を担っていた。 この2つの役目は1820年にシュポーアが登場した時”Conductor”に統一された。
  ヴィオッティは1814年、1815年にも生徒のモーリ(Nicolas Mori)と共に自身の作品を演奏し、同時にリーダーを務めた。 ヴィオッティはこの期間は少なくともこのような音楽活動は続けていた。 このようにヴィオッティはロンドン・フィルハーモニックック協会の設立に関与し、しばしばアンサンブルのプログラムに出演したが、彼の存命中に彼の協奏曲がロンドン・フィルハーモニック協会のコンサートで演奏されることはなかった。 ロンドン・フィルハーモニック協会のコンサートでヴィオッティの協奏曲が取り上げられたのは、ヴィオッティの死後約40年の1862年で、3月10日のこの年第1回のコンサートでヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim)によりヴァイオリン協奏曲第22番が演奏された。
  公共の場での音楽家としての15年の長いブランクにもかかわらず、ヴィオッティがロンドン・フィルハーモニック協会の設立に関与できたことは不思議に思われるかもしれないが、設立に関わった音楽家たちの多くがヴィオッティと個人的に大変親しい関係にあったことが大きな要因である。 それはマーガレット・チネリーがモーティマー通り5番地の家やギルウェル・ホールにおいて催した音楽会を通してである。 マーガレットは毎週のように週末にはロンドンの音楽家をモーティマー通りの自宅やギルウェル・ホールの客間に招いて接待し、音楽会を催した。 ロンドン・フィルハーモニック協会設立時の「会員」や「準会員」の中にはフルート奏者のアッシュ、ピアニストのクレメンティ、ピアニストとヴァイオリニストのクラーマー兄弟など、一度や二度この音楽会を訪れた人が多く、また、コンサート活動でヴィオッティと同僚だったザロモンやヤニェヴィチ、ヴィオッティの生徒のモーリ、などが含まれていた。 ヴィオッティとマーガレットはこの協会の設立には大きな希望を抱いていたし、再びロンドンの音楽界に関与できることを喜んだに違いない。
  ロンドン・フィルハーモニック協会は創立100周年のシーズン(1911―12)国王から”ロイヤル”の呼称使用が許可され、現在の名前となった。 その事務所は現在オックスフォード通りから入ったストラッドフォード通りの突きあたりにある。

参考文献 菊池修 著 ”ヴィオッティ” 慧文社 (2009).
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