GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(24)ギルウェル・パークでのチネリー家との生活

  ギルウェル・パークはロンドンの中心から北東およそ20キロに位置し、現在ではボーイスカウト連盟のキャンプ場として様々な設備を整え、世界各国からのスカウトが集まるトレーニング場となっている。 18世紀後半にロンドン郊外のギルウェル地区を含めた一帯で土地開発が始まった。マーガレット・チネリーの父親のレオナルド・トレジリアンはこの地域34エーカーを買い取り、そこにあったホワイト・ハウスの前身である四角いブロック建造物を改修した。 トレジリアンには3人の娘がいたが、1792年にトレジリアンが死んだ時、土地家屋は長女のマーガレットに引き継がれた。 マーガレットはすでにウィリアム・バッセット・チネリーと結婚していたので、財産はイギリスの法律によりチネリー家の物となり、チネリー家はギルウェル・パークの大地主となった。 チネリー家は、それまで別の名前で呼ばれていた住居建造物をギルウェル・ハウスと名付けた。 マーガレットは熱烈な園芸家で、熱心に土地の改良・開発を行った。彼女は家の周りに豪華な庭と散歩道を作った。 バッファロー・ローンと名付けられた裏庭には四季折々の草花をいっぱいに飾り、土地の中心を囲むように広いライム・ウォークという名の散歩道を作った。 現在ではライム・ウォークにはすでにライムの木はほとんどなくなっているが、この散歩道は今日でも多くの人を楽しませている。 ギルウェル・パークの中心にあったギルウェル・ハウス、現在のホワイト・ハウスにはチネリー一家の他ヴィオッティも住んでいたが、他人に渡った後、無人の館になってから60年以上も誰も住んでいなかった。 この土地一帯と建物を1919年にボーイスカウト・イギリス連盟が購入し、これらを整備して1919年の7月に新しいギルウェル・パークの開所式を行った。 53エーカーの土地にはホワイト・ハウス、トレーニング場、果樹園、少年キャンプ場などが含まれている。 ヴィオッティが都会の喧騒をさけて心安らかな生活を送っていた郊外の楽園は、今では若者達の活気ある声に満ち溢れている。
  シェーネフェルトからイギリスに戻ったヴィオッティはギルウェル・パークに滞在して、チネリー一家と生活を共にした。 ギルウェル・パークはロンドンから20キロ程北にある”田舎”であった。 チネリー夫人マーガレットが父親から受け継いだこの土地に1796年にロンドンから移ってきたのは子供の教育のためであった。 マーガレットは教育者ド・ジャンリス女史(Madame de Genlis)の薦めにしたがって、キャロライン、ジョージ・ロバート、ウォルターの3人の子供たちの毎日の活動や進歩を日記に記録しながら、子供たちを育てた。
  マーガレットは生まれ持った才能ある音楽家であり、読書や詩を愛した。チネリー夫妻は芸術を支援し、多くの社会的会合に出席し、自分の家でも読書会や音楽の夕べなどを催して世間から好評を得ていた。 チネリー家はまさにロンドン上流階級の家庭の模範であった。 ロンドンを引き上げてギルウェル・パークに住むようになってマーガレットはギルウェル・パークでパーティを定期的に開いた。 その中心は読書会や音楽会で、芸術界のみならずジェントリーや政治家などの貴族社会の人たちも参加した。 社会的地位の最も高い者として王室関係の人もしばしば見られた。王ジョージ3世はしばしばホールに出席した。 王の7番目の息子でケンブリッジ公爵のアドルファス・フレデリックは教養の高い客人で、ヴィオッティの生徒でもあり、チネリー家のコンサートではしばしばヴィオッティと共演した。
  チネリー一家が住んでいた白い建物はギルウェル・ホールあるいはホワイト・ハウスと呼ばれ、素朴で心安らぐ場所であり、多くの人が立ち寄っていた。 肖像画家のヴィジェー・ルブランは1803年にロンドンにやってきたときの記憶としてギルウェルの第一印象を次のように思い出している。 「私が田舎に最初に踏み入ったのはイギリスに到着した直後のことで、ギルウェルのチネリー夫人の家に滞在した時であった。 そこで私は有名なヴィオッティと会った。その家は大変上品で、私は素敵な歓迎を受けた。 玄関の柱は花飾りで飾られており、階段も同じように花綱で飾られていた。 居間に入るとすぐに、2人の小さな天使、チネリー夫人の息子と娘がかわいらしい歌を歌ってくれた。 その歌は、ヴィオッティが私のために特別に作曲してくれたものだった。 私はこの愛情のこもった歓迎に本当に感動させられ、ギルウェルで過ごした2週間は幸せで心が安らぐ時となった。 チネリー夫人の娘はピアノ演奏に驚くほどの才能を持っていて、若い娘さんとヴィオッティ、それにこれまた洗練された音楽家であるチネリー夫人が大変素晴らしいリサイタルを毎晩のように開いてくれた」。
  地上の楽園ともいえるこのような生活に悲劇が襲った。1802年には一番下の子供ウォルターがパリ旅行中に死亡した。 マーガレットは彼の思い出としてホワイトハウスの裏にある”子供の庭”に石の墓をたて、毎日のように花を添えていた。 1812年に2度目の悲劇がチネリー家を襲った。今度は娘のキャロラインで、百日咳を患ってロンドンの病院に収容された。 1812年2月にマーガレットはホワイト・ハウスの裏側にある野外礼拝堂の一角に円柱を立てて娘の助命を神に祈ったが、キャロラインは4月3日、20才の若さで息を引き取っだ。 ウォルターの遺骨はウォルサム寺院に収められていたが、そこにキャロラインの遺骨も収められた。 ウォルターの墓とキャロラインの円柱は元のままの形で今でもギルウェル・パークにある。
  キャロラインの死とほぼ同時に、ウィリアム・チネリーの公金不正使用が発覚した。 巧みに書類操作をして資金を不正に着服し、金を私的に使用した。10年間にわたる詐欺は8万1000ポンドで、当時としては途方もない金額であった。 ウィリアム・チネリーは1812年3月17日に解雇された。

ヴィジェ=ルブランによるヴィオッティの肖像画とマーガレット・チネリーの肖像画
  ヴィオッティはシェーネフェルトからイギリスに戻った後、1801年の4月にはロンドン郊外ギルウェル・パークにあるチネリー夫妻の邸宅に滞在し、チネリー夫妻の3番めの子供のウォルターの教育に当たっていた。 ヴィオッティについて不明であった1800年以降の状況、特にチネリー家との関係は、1970年末にシドニーの芸術・科学博物館(1988年よりパワー・ハウス・ミュージアム)で掘り起こされたチネリー家に関する資料とデニス・イムの調査から明らかになってきた。 ヴィオッティはチネリー家と生活を共にしていた。 ヴィオッティはチネリー家の子供たちにとっては幼い頃から家族の一員であって、特に音楽上重要な役割を果たした。 チネリー夫人が子供たちに行った教育の過程を綴った注目すべき日記が残されており、娘キャロラインはヴィオッティの協奏曲を弾いたり、ヴィオッティと一緒に演奏したこと、音楽にイタリア語で歌詞をつけたことなどが記されている。 キャロラインへの音楽教育は熱心で、ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第28番はキャロリーナ・コンチェルトと名付けられている。
  ヴィオッティはチネリー家において音楽以外の教育でも大きな貢献をしたと思われる。 マーガレットは厳しい教育を行ったが、それをヴィオッティは補佐した。 ヴィオッティには少年の頃トリノの宮殿で受けたであろうジェントルマンとしての実務的教育が身についていたのではないだろうか。 一番下のウォルターに読み書きを教えたのはヴィオッティで、8歳の頃のウォルターは母国語の英語よりフランス語とイタリア語の読み書きが上手だった。 キャロラインとは双子の長男ジョージが教育を受けるため16歳でオックスフォードに出発した時、保護者として付き添っていったのはヴィオッティであった。 キャロラインが百日咳を患ったのは1811年のイースターの直前で、3ヶ月間ロンドンで治療して回復した。 しかし1812年4月3日、ウィリアムがエーテボリに逃れた翌日にカーゾン通り36番地にある友人スペンサーの家で死亡した。 百日咳ではなく、長年にわたって患った結核ではないかと思われる。 キャロラインの最期には、マーガレット、ジョージ、ヴィオッティ、スペンサーが傍にいて看取っている。 そしてキャロラインが死に瀕していることをエーテボリにいたウィリアムに伝える役目をヴィオッティが引き受けた。 このように、ヴィオッティがチネリー家の子供たちに対して第2の父親の役割を果たしていたといえる。
  レモ・ジャゾットは自書の中で、ヴィオッティがチネリー家に入り込んでその家政を取り仕切っていたことに半信半疑であった。 また、ヴィオッティは道徳的にも精神的にも不可解な人と感じていた。しかしこれは事実のようだ。 実はシェーネフェルトで書いたヴィオッティの『自伝』からもこのことは読み取れる。 「私は最も尊敬すべき資質を持ったチネリー夫妻と知り合いになりました。 親切で思いやりがあり、誠実な友で、彼らのすばらしい精神に欠点が見当りません。私はご夫妻に会ってすぐに、この人たちを好きになりました。 また、彼らも同様に、私と会ってすぐに私を大切にしてくれました。 この幸福な瞬間から、私は自分の人生はこの人たちと共にあること確信しました。 世間、社会、娯楽、すべてのものがご夫妻無くしてはつまらないものに見えました。 私は彼らの家に家族の一員あるいは兄弟のように住んでいましたが、そこはすでに自分の家になっていて、いつもそこに居たいと思っていました」。 追放されたシェーネフェルトからロンドンに戻って以来、チネリー家はヴィオッティのために、彼の仕事上や個人的な活動を支援し、彼の残りの人生の支えとなり続けた。 一方、ヴィオッティは、チネリー家の中で家族同様に振舞い、子供たちの教育にも携わり、チネリー家が1812年にキャロラインの死とウィリアム・チネリーの資金の業務上横領による大蔵省主任官の免職という二つの悲劇に見舞われたとき、ヴィオッティはイギリスを逃れたウィリアムを助け、マーガレットを支えた。
  ギルウェル・パークに滞在中、1802年8月にヴィオッティはチネリー家に同伴して2ヵ月半パリを訪問した。 ヴィオッティはケルビーニ、バイヨ、ロード、クロイツェルたちと再会し、旧交を温めあった。 この訪問中にヴィオッティはケルビーニたちが立ち上げた出版社からヴァイオリン協奏曲21番から26番までの6曲を出版する契約をしている。 また、要請されてコンセールヴァトワールの小ルームでコンサートを行って、コンセルヴァトワールのヴァイオリン教本となっていたヴィオッティの演奏法を直接学生たちに聴かせた。
  ヴィオッティは1792年7月にロンドンにやってきて、翌年からザロモン・コンサートなどで音楽活動を始めた。 ギルウェル・パークを最初に訪れたのは1793年6月なので、ヴィオッティがチネリー夫妻と知り合ったのはそれ以前ということになる。 ヴィオッティがギルウェル・パークでチネリー一家と一緒に住むようになったのはシェーネフェルトでの隠遁生活から解放されて ロンドンに戻った1799年後半からであるが、ヴィオッティとチネリー家との家族としての付き合いは、 ヴィオッティが死ぬ1824年までの30年以上続いた。

ギルウェル・パークにあるウォルターの墓(左)とキャロラインの円柱(右)
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