GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(23)シェーネフェルトでの生活

  ヴィオッティは、なんら理由を示されずにイギリスを追放となり、1798−99年にハンブルク近郊のシェーネフェルトへ移住し約1年半生活した。 当時シェーネフェルトはデンマークの支配下にあったが、現在はドイツ連邦共和国シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州に属する町で人口約18000人の落ち着いた美しい街である。 土地は東西に5q、南北3qの逆三角形をしている。
 シェーネフェルトでは1786年から1788年にかけて耕地整理が行われ、35人の地主が記録されている。 この耕地整理の書類には、豊富な歴史的な資料とともに、綺麗な線で描かれた村の地図が作られていて、シュレスヴィクーホルシュタイン州立文書館に保管されている(Landesarchiv Schleswig-Holstein, Abt.402 A3 Nr.454)。 この地図は、ヴィオッティが滞在した場所を特定するのに大変貴重な資料である。
 この耕地地図を見てみると、当時のシェーネフェルトの範囲は現在とほとんど同じである。 新しい幹線道路としてシェーネフェルトーエルムスホルン通りが以前の畑を横切るように作られているが、それ以外、現在の街の道路は1786−1788年当時とほとんど変わりなく、昔のままの骨格を残している。 現在の地図の中央上部にあるフリードリヒスフルデ(Friedlichshulde)という名前の場所は、かつて”第7農地”があったところで、その南側には水車小屋のある池があった。 この池のあった場所は現在埋め立てられて住宅やスポーツ施設が並んでいる。

現在のシェーネフェルト。中央を東西に走る幹線道路が新しく作られている。
地図中央上部のフリードリクスフルデと名付けられた場所が、かつて第7農地があったところ。

 1788年に作られたシェーネフェルト耕地整理図の中央上部の概要。
点線は現在の主要幹線道路の位置を示す。図の左下に家屋が密集する集落が形成されている。ここは現在の「シェーネフェルト中央」付近。 現在は埋め立てられた水車小屋のある池の北側の第7農地に、家屋が4−5軒見うけられる。
 1788年の地図の中には、現在のハウプトシュトラーセ通りに沿って村の家々が一軒一軒茶色で記入されていて、村の中央には集落が形成されているのが認められる。 それに加えて、水車のある池の北側の第7農地にも家屋が5軒ほど認められる。 この古い地図の欄外には当時の土地所有者38人の名前が書かれている。 その7番目にシュミットの名前が見られる。シュミットは英語名でスミスのことで、ヴィオッティが世話になったスミス氏がシェーネフェルトの第7農地を持っていたと推測できる。
 ところでシェーネフェルト市の編年史作者のホルスト・フュルステナウは、デンマーク支配下時代(1641ー1863)のシェーネフェルトの土地所有者について調べ、頻繁に交代した土地所有者の変遷を市の出版物としてまとめた(下図)。 その資料により、第7農地の所有者シュミット(スミス)については、興味あることがわかった。
 この所有者スミスはアルトナに住むジョン・スミス(John Smith)である。ジョン・スミスはこの第7農地を1784年に購入しており、1790年には更に第4農地をセルホーンから購入していた。 ヴィオッティが滞在した1798年頃にはジョン・スミス氏はシェーネフェルトの土地に投資していた。 ハンブルク市西地区のアルトナに住むスミスということで、この人がヴィオッティを世話したスミス氏であろう。

 ”ハンブルクのスミス氏”には娘の情報があった。その娘は1811年にブッシュ(Busch)氏と結婚し、ブッシュ夫妻は1806年に、ヴィオッティがチネリー一家と生活していたギルウェル・パークを訪問している。 ヴィオッティを世話したスミス氏の娘がブッシュ氏と結婚している情報は、スミス氏を特定するのに極めて重要である。
 ヴィッティを世話したスミス氏はシェーネフェルトに土地を持つアルトナのジョン・スミスであることを確実にする事実がフュルステナウの本の記録の中で見出された。 それはジョン・スミスの土地を相続した娘の情報である。 娘の名前はジェーン(Jane)で、ジョン・スミスの土地すべてを相続していることから、一人娘と想像できる。 1816年、多分この年にジョン・スミス氏が亡くなったのであろう、「ジェーン・ブッシュ(旧姓スミス、娘)が土地を相続」、と記録されている。 ジョン・スミスの娘ジェーンはブッシュ氏と結婚していたこと、ヴィオッティを訪ねてきたスミス氏の娘がブッシュ氏と結婚していたことから、第7農地を所有していたジョン・スミスが、ヴィオッティを世話したスミス氏であることがはっきりとした。
 1798年当時、ジョン・スミス氏がシェーネフェルトに持っていた農場はかなり広いのでヴィオッティが住んでいた所は特定できないが、 当時の地図を見ると、家屋が建っていた場所は村の集落の他にはスミス氏が所有していた水車のある池の北側だけである。 その第7農地の一角は当時格好の別荘地で、ヴィオッティが滞在したのはこの場所だったと特定してよさそうだ。
 シェーネフェルトに着いたヴィオッティは、自分の潔白を訴えるため、それまで自分が歩んできた道すじを説明する簡単な『自伝』を書いて、 イギリスを追放されるなんら理由のないことを訴えた。それが”プレシ(Precis/大要)”である。 この自伝はヴィオッティが自分の事について書いた数少ない資料の一つである。そこには次のことが記されている。
 トリノのダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家では令息ジュゼッペ・アルフォンソと共に音楽の夥しい練習を行ったこと、1780年のジュネーブでのコンサートを初めとしてドレスデン、ベルリン、ワルシャワ、サンクトぺテルグルクを廻って歓迎され、その帰りにパリに寄ってそこで落ち着いたこと、2年後にマリー・アントワネットに仕え、王妃と王室一家から手厚い処遇を受けたこと、ヴィオッティが経営した劇場は国王の庇護にある劇場で貴族の集まる場所であるとの批判を受けたこと、イギリスに渡ったのは1792年7月21日か22日であること、翌年の1793年7月21日からイタリアの母が死んだために大陸を旅行して12月末ごろにロンドンに戻ったこと、ロンドンではチネリー夫妻との友情とワイン商人のチャールズ・スミス氏との交友関係に幸福を見出していたこと、などである。
 シェーネフェルトに来てすぐに『自伝』を書いたが、3ヶ月ほどして落ち着いた頃にいくつかの手紙を送っている。 そのうちの1つにトリノのダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家の当主ジュゼッペ・アルフォンソへ送った1798年6月30日付け手紙があり(イタリア・ビエッラ国立文書館所蔵)、その最後の部分でシェーネフェルトの生活に触れている。 「この手紙から、閣下は私がある村の小屋に居ることがお分かりでしょう。そこはハンブルクから9マイル離れた場所にあり、善良で誠実な友人で裕福なイギリス人のワイン商人の家です。私たちは穏やかに農夫の生活を送っています。 お蔭様で、私のワイン商売は、ロンドンの仲間たちの世話で、私がロンドンにいた時のように進んでいます。 そのワイン商売の用事のために出かけなければならない時以外は街に出ることはありませんし、決して行こうとは思いません。 私が会う人たちは皆、律儀で商人に相応しい人たちです。私は音楽にはほとんど時間を費やしておりません。 それというのも、私は音楽では大変苦労をしてきたからです。」 そして最後はジュゼッペ・アルフォンソの健康を気遣う文章で手紙が終わっている。
 この手紙からも、ヴィオッティは農場の一角にあるスミス氏の家に落ち着いたものと思われる。 農地番号7の場所、水車のある池の北側に見られる家屋と理解して不都合はない。音楽にはあまりかかわっていなかったようだ。 ロンドンではオペラ・コンサートで最先端の音楽活動をしていたにもかかわらず、ワイン貿易を始めていたが、ここに追放されるに及んで、音楽からワイン商売にさらに関心事が移ったようだ。 トリノ時代に音楽を通じて心を通い合い、音楽の才能を信じてトリノ以降もヴィオッティを財政的に支援し続けていたジュゼッペ・アルフォンソの心境はどの様だったろうか。
 ヴィオッティは1798年にハンブルクを訪れて2ヶ月間滞在していた若いフリードリヒ・ピクシスにレッスン指導している。 ピクシスはマンハイム出身であるが、1810年にプラハ音楽院の教授となり、マンハイム楽派とヴィオッティの教授法を結びつけてヴァイオリン演奏のプラハ派を築いた。 ヴィオッティの演奏法はボヘミア地方にも及んでいる。 ヴィオッティは1799年8月頃、シェーネフェルトを去ってイギリスに帰ったと考えられている。
 ハンブルクには主要な鉄道駅が2つある。アルスター湖に近い中央駅と、中央駅から西に5qに位置するアルトナ駅である。 シェーネフェルトに行くにはアルトナ駅から出ているバスが便利である。 直通バスが昼間でも20分毎に出ており、シェーネフェルト中央まで30分で到着する。 市庁舎からハウプト通りに出て西に進むと300mほどでかつての町の中央、シェーネフェルト・ミッテにでる。 ハンブルクからのバスの終点の停留所付近一帯である。
 シェーネフェルト・ミッテから北に向かう道を進むと右側にスポーツセンターがあり、その先にフリードリヒスフルデという名前の場所がある。 ここがかつてジョン・スミス氏が所有していた第7農地があった場所である。 18世紀末の地図にはスミス氏の農場の南側に東西に走る街路樹が見られるが、そこは現在”リンデンアレ通り”となっている。 1788年の地図には”水車のある池”の北側の第7農地内に整地された場所があって、そこに5軒の建物が示されていた。 その敷地内には現在乗馬用厩舎が建っている。この付近がヴィオッティがロンドンを逃れて約1年半を過ごした場所である。

フリードリヒスフルデ地区にある乗馬用厩舎(左)
シェーネフェルトでヴィオッティが過ごした家屋があった場所(右)
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