GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(20)ロンドンにおけるヴィオッティの住所

  ロンドンにおいて予約制の連続演奏会とは別に”慈善演奏会(Benefit Concert)”と称するコンサートが開かれていた。 多い年には連続演奏会の開催日数に匹敵する回数開催され、重要な音楽演奏機会であった。 この時代、慈善演奏会は現代的な意味とは異なっていて、音楽家個人が自分自身の金銭的利益を得るために行うコンサートを意味した。
  ヴィオッティも自分の収益のためのコンサートを1793年と1794年に開催した。 これら慈善演奏会を知らせる広告の中で注目すべきことは、ヴィオッティの連絡先である。 当時、個人が主催する慈善演奏会では、チケットはコンサート会場かあるいは主催者個人の住所で販売された。
  1793年のヴィオッティの収益のためのコンサートは、ハノーヴァー・スクエア・ルームズにおいて4月26日に開かれているが、このコンサートについてのタイムズ紙の開催案内の最後に 「7時に開場、8時に開演。チケットは1枚10シリング6ペンスで、メイフェアー地区カーゾン通り47番のヴィオッティ氏、ハノーヴァー・スクエア・ルームズのウィリアム氏が用意しています。」と書かれている。 また、1794年の収益のためのコンサーの開催案内では、「7時に開場、8時に開演。チケットはチープサイド通りとヘイマーケット通りのロングマン氏とブロデリップ氏、ミドルセックス病院のチャールズ通り16番地のヴィオッティ氏、それにハノーヴァー・スクエア・ルームズのウィリアム氏が用意しています。」と書かれている。 したがって、1793年4月にヴィオッティはメイフェアー地区のカーゾン通り47番地に、1794年のシーズンにはミドルセックス病院に面したチャールズ通りの16番地に居を構えていたことが示唆される。

  メイフェア(Mayfair)と呼ばれる地域は、北はオックスフォード通り、南はピカデリー、西はパークレーン、そして東はスワロー通り(現在のリージェント通り)に及ぶ地区をさす。 その中心となっていたのはピカデリー通りに近いカーゾン通りとハーフムーン通り、それにパークレーンとピカデリーに囲まれた地域であった。 カーゾン通りはハイド・パーク東南より東に入る通りで、1715年ごろナサニエル・カーゾンという名前の古い家柄の準男爵がこの地を購入し所有していたことからこの名前がついた。
  1792―99年にホーウッドにより作成された『ロンドン市街測量図』には当時の家々一戸毎に番地が記されていて、カーゾン通り47番地が具体的にどの建物か特定できる。 当時のカーゾン通り47番地は、カーゾン通りのピカデリー通り側でクラージェス通りとの交差点の角から東へ2軒目の建物である。 現在その建物は番地が変わってカーゾン通り54番地となっており、1階がレストランの赤いレンガの建物である。 ちなみにその隣の角にある茶色い建物はカーゾン通りの地番ではなくクラージェス通り19番地で、1790年代のロンドン市街図(ホーウッド図)と変わらぬ19番地の地番を現在も付けている。
  ヴィオッティにとってカーゾン通りは関わりの深い通りである。 ロンドンに来て間もなく親交を結んだチネリー夫妻の長女のキャロラインが1812年に20歳の若さで病死するが、その当時キャロラインはカーゾン通り36番地の友人の家で療養していた。 ヴィオッティはよく見舞い、最期の時にも付き添っていた。その建物の地番は現在39番地になっている。 当時のチャペル・イースト通り、現在のトレベック通りから2軒目の白い建物がその39番地である。 また、キャロラインの母親マーガレット・チネリーが1810年に病気治療のためカーゾン通りに面したハーフムーン通り24番地に滞在していた。 このハーフムーン通りは、カーゾン通りからピカデリー通りに抜ける通りで、当時の24番地は、カーゾン通りに面した角の位置に相当していることがホーウッド図からわかる。

  1794年の慈善演奏会チケット販売の住所にあたるチャールズ通りは、カヴェンディッシュ広場の北東から東に延びるモーティマー通りに続く通りで、ミドルセックス病院に面したところである。 その後リージェント通りが出来てカヴェンディッシュ広場の東側が大きく変わり、現在ではチャールズ通りという名前は無くなり、モーティマー通りが延長された形になっている。 当時のチャールズ通り16番地はウェルズ通りと交わる角の位置にあった。 その後の調べで、ヴィオッティが住んでいたのは隣の家、ウェルズ通り34番地であって、チャールズ通り16番地はチケット販売所であった。 現在はその場所には大きな建物が建てられている。
  ヴィオッティは1797年頃からワインの貿易商を始めたといわれている。 1797年の1月から1798年3月まではワイン商人のスミス氏と共に、アデルフィのデューク通り3番地で生活をしていた。 当時のアデルフィのデューク通りは現在ではジョン・アダム通りと名前を変えており、デューク通り3番地は現在のジョン・アダム通り27番地に当たる。

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