GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(19)オペラ・コンサートの総監督とハイドンとの共演
ヴィオッティはロンドンに着いて3年目となる1794―95年の音楽シーズンには、キングズ劇場で監督代理に任命され、オペラ上演の監督を務めた。
また、年が明けた1795年には、キングズ劇場に新しく作られたコンサート・ルームを使って企画された予約会員制の連続演奏会”オペラ・コンサート”の総監督を任せられた。
ヴィオッティはこのコンサートで自らの協奏曲を演奏したほか、ハイドンと共演し、ハイドン晩年の交響曲であるザロモン・セットの初演も行う栄誉に浴した。
ロンドン時代でヴィオッティが最も輝いた時であった。
キングズ劇場は1704年に建設され、何度か焼失し再建するが、ヘイマーケット通りのほぼ同じ場所に位置して、イタリア・オペラ公演の本拠地としてオペラ界の指導的役割を演じた劇場で、別名オペラ・ハウスのことである。
創立以来、何度も名前を変えているが、現在はハー・マジェスティーズ劇場と名づけられ、ミュージカルを上演する劇場として知られている。
1789年に火災にあうが、焼失後座席数3300のイギリス最大規模のオペラ・ハウスが建設され、1791年2月21日に開業した。
新劇場建設に際し、コンサート・ルームを併設する計画が出されたが、資金難に加え、キングズ劇場がイタリア・オペラ上演劇場としてのライセンスのもとに運営されていた事情もあって、1791年の新劇場オープン時にはコンサート・ルームは完成しなかった。
結局観客900人を収容するコンサート・ルームが1794年に完成し、オペラ・ハウスのコンサート・ルームを使った”オペラ・コンサート”と名付けられた連続演奏会がヴィオッティの総監督の下で幕明けした。
オペラ・コンサートは2週間毎に行われる9回からなる予約演奏会として企画された。
声楽と器楽の両分野においてその当時英国内で活躍している最も優れた音楽家たちを集めて合同の演奏会とする新しい意欲的な試みであって、声楽歌手としてバンティ夫人、ブライダ、モリケッリ夫人、独奏者としてヴィオッティ、ドラゴネッティ、ハリントン、楽団の指揮者としてクラーマーなどが参加し、総監督をヴィオッティが勤めた。
計画がスタートした後、作曲家としてハイドン、クレメンティ(Muzio Clementi)、独奏者としてザロモンとドゥセクも加わり、新しく完成したコンサート・ホールでのオペラ・コンサートはこれまでにない程充実した連続演奏会となった。
初日2月2日の新聞を読むと、この演奏会の人気の高さが分かる。
「事務所には数え切れないほど多くのチケット予約希望が寄せられております。
この状況に正しく対処するため、本コンサートは、当日券は発売されないこと、会費を分割できないこと、シーズン途中で会費全額未満でのチケット発行は行わないこと、を聴衆の方々に対して固くお約束いたしております。
このことを皆様が是非ともご理解くださいますよう、お願いいたします。
なお、会員に発券するため、当劇場の事務所は本日昼夜を通して開いております。」
2月2日に初日のコンサートが開かれ、2月16日の第2回オペラ・コンサートにはザロモンが演奏者として加わっている。
その後ほぼ一週間おきの月曜日に開かれて、5月18日の第9回でコンサート・シリーズを終えた。
2月2日にザ・タイムズ紙に掲載されたコンサート初日のプログラムを見てみよう。
2月2日初日のオペラ・コンサート公演内容
第1部
ハイドンの交響曲
チマローザの二重唱曲―ロベディーノ氏とモレッリ氏
ドゥヴィエンヌのバスーン協奏曲―ホームズ氏の独奏
ガッザニーガの歌曲―モリケッリ夫人
ドゥセクのピアノ協奏曲―ドゥセク氏の独奏
マルティーニの四重唱曲―モリケッリ夫人、ケリー氏、ロベディーノ氏、モレッリ氏
第2部
ハイドンの新作交響曲(このコンサートのために作曲された)
ビアンキの『カストルとポルーチェ』からの歌曲―ネーリ氏
ヴィオッティの新作協奏曲―ヴィオッティ氏の独奏
ビアンキの『アフリカのスキピオ』からの歌曲―バンティ夫人
終曲―全員による演奏
2月2日のオペラ・コンサートで演奏されたハイドンの新しい交響曲は交響曲102番である。
ヴィオッティはハイドンとはザロモン・コンサートで共演して面識があったが、このオペラ・コンサートでは6回以上ハイドンと共演している。
そしてハイドンの最後の3曲の交響曲はヴィオッティが総監督を務めたこのコンサートで初演された。
オペラ・コンサートでヴィオッティが編成した器楽奏者60人規模のオーケストラは、ザロモン・コンサートや1813年に設立されたフィルハーモニー協会のオーケストラ編成が40―50人であったことと比較しても大編成であったことがわかる。
ヴィオッティはトリノのテアトロ・レージョで大編成のオーケストラを経験しているが、この大編成のオーケストラとハイドンの交響曲を手がけたことが自身のヴァイオリン協奏曲の楽器編成とオーケストレーションに影響を与えたことだろう。
ヴァイオリン協奏曲においてフル・オーケストラ編成によるソナタ形式を導入したのはヴィオッティが最初である。
ヴィオッティは1795年のオペラ・コンサートではロンドンで最も充実した年を送ったと思われるが、奇妙なことに翌1796年のオペラ・コンサートには参加していない。
その理由ははっきりしないが、ワイン貿易商を始めたためともいわれている。
この年のオペラ・コンサートではジョルノヴィーキがヴィオッティに代わって第一ヴァイオリニストを務め、ジョルノヴィーキのヴァイオリン独奏を中心にして開催されている。
ジョルノヴィーキの役目は1年で終わり、1797年のオペラ・コンサートでヴィオッティの役割が復活した。
コンサートは2月から6月にかけて12回開催された。
この年ヴィオッティはオペラ・コンサートに5回出演し、5月8日には新しいヴァイオリン協奏曲を演奏した。
翌1798年のシーズンにヴィオッティにとって大きな転換期を迎えた。
ヴィオッティはこの年のキングズ劇場におけるオペラ・コンサートに出演した。
1798年2月5日の第1回と2月12日の第2回にはいずれもヴァイオリン協奏曲を演奏し、2月19日の第3回の演奏会ではドラゴネッティ氏との競演でヴァイオリンとコントラバスの二重奏を演奏した。
第4回は3月5日に開催されたが、それを知らせる広告3月5日のタイムズ紙には、「本日第4回のオペラ・コンサートが開催される」旨掲載されただけで、その内容については触れていなかった。
一方、この日のザ・タイムズ紙にはヴィオッティがイギリス政府からの命令で国外追放になった記事が掲載された。
ヴィオッティは第3回のオペラ・コンサートでロンドンでの公演実績を絶ち、ハンブルグ近郊のシェーネフェルトに隠遁することになる。
(text19)
Copyright (c) 2009 Viotti fanclub. All Rights Reserved.