GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(17)パリの街とヴィオッティ
1782年にパリに到着してコンセール・スピリチュエルで華々しいデビューを飾ってから約10年間、ヴィオッティの行動範囲はパレ・ロワイヤルからイタリアン大通りにいたるリシュリュー通り界隈に集中していた。
リシュリュー通りに面したパレ・ロワイヤルの南端にはテアトル・フランスの劇場があった。
ここは現在コメディ・フランセーズの劇場になっている。
そこから北へ進むと、右手リシュリュー通り40番地にかつてのオテル・ド・シャルトルがある。
ヴィオッティがケルビーニと初めて会った1785年には、ここは家具付きのアパートであって、ヴィオッティはここにケルビーニと一緒に住んでいた。
以前ここにモリエールが住んでいたらしく、現在この建物には「モリエールがここに住んでいた」と書かれたプレートが掲げられている。
ヴィオッティがパリで過ごした頃のリシュリュー通り界隈 オペラ通りはまだ出来ていない
@チュイルリー宮殿 Aパレ・ロワイヤル B国立図書館 Cモンタンシェ劇場 Dルーヴォア劇場
Eフェドー劇場 Fファヴァール劇場 Gオランピック劇場 Hコンセルヴァトワール Iルブラン邸
Jリシュリュー通り40番地 Kミショディエール8番地 Mヴィクトワール広場
リシュリュー通りを北に進むと右手に国立図書館があり、左手には革命期にオペラ座劇場(モンタンシェ劇場)が建てられた場所に出る。
現在ルヴォア公園になっている。モンタンシェ劇場は1793年に完成し、1794年からヴィオッティがオペラ座の監督の地位にあった1820年に取り壊されるまでオペラ座が使用した。
ルヴォア通りを介してモンタンシェ劇場の斜め前、ルヴォア通り8番地にはルヴォア劇場があった。
リシュリュー通りをさらに少し北に進むと、右側がフェドー通りの入り口になる。
ヴィオッティがテアトル・ド・ムッシューのために建設したフェドー劇場はコロン通りとの角にあった。
コロン通りそのものも、フェドー劇場の建設時に整備され、フィュ・サン・トマ通りからフェドー通りへと通り抜けられるようになった。
コロン通りには商店が並び、多くの人で賑わう盛り場となった。
パリ市内には歴史的な名所を記念してその地の由来を説明する立て札が街の各所に立てられているが、フェドー劇場を説明する立て札は残念ながら見当たらない。
今ではフェドー劇場の痕跡は残されていない。
一方、革命の最中、フェドー劇場と競い合って民衆にオペラを提供したオペラ・コミック座の本拠地ファヴァール劇場は何度か建て替えられたが、その場所に今でも偉容を誇っている。
ヴィオッティはリシュリュー通り40番地のアパートの他、ミショディエール8番地、ノートルダム・デ・ヴィクトワール20番地などにケルビーニと一緒に住んでいた。
ミショディエール通りは、新しく作られたセプタンブル通りが横切っているが、8番地はその交差点の南側に相当する。
ヴィオッティはパリに到着した最初の頃、コンセール・スピリチュエルでの演奏会に臨む前に、ヴィクトワール広場に通じるラ・フューヤード通りに邸宅を持つバッジュ男爵の支援を受け、そこで私的なコンサートを行った。
ヴィクトワール広場はリシュリュー通りから歩いて数分のところにある。
リシュリュー通りはテアトル・フランスのところからイタリアン大通りまで10分程度で通り抜けられる程であり、また、ヴィオッティが活躍したコンセール・スピリチュエルの”スイスの間”とヴィオッティが設立したテアトル・ド・ムッシューの”機械仕掛けの間”があったチュイルリー宮殿はリシュリュー通りの南端にあった。
リシュリュー通り界隈はヴィオッの活動の中心であり、当時のヴィオッティが偲ばれる。
参考文献
菊池修、 ”ヴィオッティ”、慧文社(2009).
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