GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(16)ストラディヴァリウスとトゥルト弓
パリにおけるヴィオッティの演奏に感銘を受けたヴァイオリニストたちは、ヴィオッティが使用していたストラディヴァリのヴァイオリンに注目し、ストラディヴァリウスの人気が一気に広まったといわれている。
アントニオ・ストラディヴァリ(1644―1737)が制作した弦楽器はストラディヴァリウスとよばれる。金色に輝く特殊なニスに覆われ、まれに見る美しさである。
時を経て音響学的に最高の状況を作り出したのだろうか、気品ある響きが驚くほどの情念を与える名器ストラディヴァリウスはヴァイオリニストの羨望の的である。
多くのヴァイオリン名器はイタリア北部クレモナで生まれた。
16世紀にアンドレア・アマティがクレモナに工房を開いてヴァイオリン製作を開始し、その技法を息子から孫のニコロ・アマティ(1596―1684)に伝えた。
ニコロ・アマティは長い生涯にわたりヴァイオリンの改良を進めた。
その弟子のアンドレア・グァルネリ(1624―1698)は、師匠の工房の隣に自身の工房を開設し、ヴァイオリン製作のグァルネリ一族を生み出した。
アントニオ・ストラディヴァリはニコロ・アマティの弟子と考えられている。
1670年にアンドレア・グァルネリの隣に工房を開いてヴァイオリン製作に力を注いだ。
アマティ、グァルネリ、ストラディヴァリの工房は隣り合わせでサン・ドメニコ教会に面した場所にあった。
サン・ドメニコ教会は取り壊され、その場所は現在ローマ広場となっている。
ストラディヴァリの工房では天才的才能が花開き、ヴァイオリンは音響学的にも美学的にも最高の輝きを得た。
アントニオ・ストラディヴァリは当時すでにイタリア国外でも有名で、ヨーロッパ中の宮廷から多くの注文を受けていた。
彼は生涯に1200挺以上のヴァイオリンを作成したといわれており、600挺が現存している。
1737年にアントニオ・ストラディヴァリが死んだ後、息子のうち二人がヴァイオリン製作を続けたが、父親が死んで間もない1742年と1743年にあいつで死亡した。
すべての楽器は末息子のパオロに相続され、直ちに売却された。
したがって、ストラディヴァリウスはヴィオッティが現れる前は過去に制作された一銘柄として流通していたが、ヴィオッティが推奨したおかげでたちまち名器として定評ができた。
ヴィオッティはストラディヴァリウスの普及に一役買っているといえる。
一方、ヴァイオリンの弓に関しては、1780年代に入ってフランソワ・トゥルト(Francois Tourte/1747―1835)が近代弓の完成の最終段階にきていた。
パリに到着したヴィオッティはトゥルト弓の完成にも一役買っていたと考えられている。
1500年以前のヴァイオリンの弓は棒を単純に曲げ、その一端に結んだ馬の毛の束を棒の別の場所に結びつけていた。
棒(スティック)は毛に対して凸型になっていて、現代の弓のような凹型ではなかった。
馬の毛を強く引っ張り、棒を大きく曲げていたため、弓の重心が毛から離れてしまい、弦と接触する毛の部分に与える力を制御しづらかった。
16世紀になって棒の曲がりは小さくなり、フロッグ(frog)と呼ばれる大型のくさびをつけて、手で持つ棒の部分を毛の部分から離すようになった。
18世紀になり弓の大切さが認識され、演奏家は弓作成者に弓の形と弾力性について注文をつけるようになった。そして弓の製作と改良はその製作者ではなく、それを使用している演奏家により特徴付けられるようになった。すなわち、コレッリ弓、タルティーニ弓、クラーマー弓、ヴィオッティ弓と呼ばれた。コレッリ型、タルティーニ型はバロック弓であり、クラーマー型はトゥルト弓に至る過渡的な弓である。ヴィオッティ型は近代弓のモデルとなるトゥルト弓である。
フランソワ・トゥルトは弓製作芸術のストラディヴァリとよばれている。
彼は良い弓を作る基本は木材にあると考えて様々な試験を行って、ブラジル産のペルナンブコ材を選んだ。これが1775年から1780年のことである。
ペルナンブコはブラジル東部に産出する中木で、強度と弾力性があり、近代弓のスティックに使用するには最適な木材である。
これは現在でも変わらない。その名前は、最初にこの材木が輸出された港の名前に由来している。
この都市は現在のレシフェ(Recife)で、古い地図を見ると”ペルナンブコ”が別名として併記されている。
フランソワ・トゥルトは近代弓のいずれかの部分を発明したというわけではないが、弓の各部分全てを効果的に使用して最良の弓を追求した。
ヘッドのサイズと形、内側に湾曲するスティックの形、材質の選択、弓の長さ、フロッグのスライドと口輪、などに詳細な検討と改良を加え、最適な形を見出し、ペルナンブコ材を使って理想的なバランスと重さを作り出すスティックの曲線形を完成させた。
このようにして近代ヴァイオリン弓の最終的な形がフランソワ・トゥルトにより決定された。
トゥルト弓は大変すばらしかったので、たちまちヨーロッパ中に広まった。
演奏家は常に最良の弓を求め、新しい製作者の弓を試した。これに対して製作者は一線級の演奏家の助言を求めた。
ヴァイオリン演奏が宮廷音楽やサロンの音楽から広い音楽ホールでの演奏へと移り、それまでより大きく鳴り響き、力強さが要求されるようになったため、それに対応できる新しい弓の出現が待たれていた。
1782年にヴィオッティがパリに来たとき、フランソワ・トゥルトはパリに住んでいた。
ヴィオッティが有名であったこと、当時パリでの影響力が大変大きかったこと、彼の演奏スタイルが弓の改良を必要としていたことなどから、ヴィオッティとトゥルトを結びつけるはっきりした資料は存在しないが、ヴィオッティがトゥルトに影響を与えたことは大いにあり得る。
ヴァイオリンの弓の変遷
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