GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(14)ヴァイオリン演奏におけるフランス派の躍進

  18世紀末から19世紀前半にかけてパリで活躍したヴァイオリニストたちは音楽史の中では簡単に触れられるだけであるが、彼らの演奏法と技巧はヴァイオリン曲・演奏の歴史に大きな貢献をしている。 ロード、クロイツェル、バイヨ、ラフォン、アブネックなどである。 1790年から1820年頃には彼らの協奏曲やアリアはヴァイオリニストにとっては主要な音楽メニューであった。 その影響はそれ以前のフランスにおける前任者たちに比べて遥かに大きく、フランスにおいて彼らの様式や技術が広く伝わった。 当時パリで活躍したヴァイオリニストのほとんどが、後にパリのコンセルヴァトワール(パリ音楽院)となった機関に属しており、パリで新風を巻き起こしたヴィオッティの様式を継承していた。 アルデ(Paul Alday)、カルティエ(Jean Baptiste Cartier)、デュラン(August Durand)、ロベレヒト(Andre Robberechts)、ピクシス(Friedrich Wilhelm Pixis)、そしてロードたちがヴィオッティの生徒であり、クロイツェルとバイヨは弟子として認められている。
  ピエール・ロード(Pierre Rode/1774―1830)はヴィオッティの生徒の中で最も有名で、ヴァイオリン演奏のフランス派の代表的人物である。 その演奏スタイルは典型的なフランス風、すなわち、きらめくような、洗練された、上品で、輝かしい、それでいて幾分クールであった。 ヴィオッティの様式に最も近いといわれている。16歳の時にコンセール・スピリチュエルでデビューした。 この年は長く続いたコンセール・スピリチュエルの活動の最後の年で、サン・マルタンのオペラ座劇場で行われた演奏会において、ヴィオッティの協奏曲13番を演奏した。 また、そのすぐ後に、当時サン・ジェルマン定期市のホールで活動していたテアトル・ド・ムッシューでも同じ曲を演奏した。 ヴィオッティはロードの才能を高く評価し、自分の最新の協奏曲の初演を委ねている。 ヴィオッティの協奏曲17番と18番はヴィオッティが1791年に新しく建てたフェドー劇場でロードにより初演されている。
  ロードは1800年の前後10年の間で最も人気のあったヴァイオリニストであった。 彼の演奏スタイルはヨーロッパ中で知れ渡り、若い世帯のヴァイオリニストたちが熱心に彼の真似をした。 ドイツ古典派のシュポーアはロードから決定的な感化を受け、ヴィオッティの生き写しであったロードのスタイルを取り入れようとした。 シュポーアはヴァイオリン演奏のマンハイム楽派の中心的存在だったので、ヴィオッティの影響はドイツの演奏家にも及んだ。 フランス派の影響はロードのロシア訪問を通してロシアにも届いていた。 また、ロードの影響を強く受けたベーム(Joseph Boehm)は新しく設立されたウィーン・コンセルヴァトワールのヴァイオリン教授に就任し、ヴィオッティのスタイルをウィーンに伝えている。 ロードはベートーヴェンから作品50の『ロマンス』を献呈されている。

ピエール・ロード(左)、 ロドルフ・クロイツェル(中)、 ピエール・バイヨ(右)
(フランス国立図書館 BnF・Gallica)
  ロドルフ・クロイツェル(Rodolphe Kreutzer/1766―1831)はヴェルサイユ生まれ、若い頃にマンハイム楽派のアントン・シュターミッツにヴァイオリン教育を受け、1780年5月にコンセール・スピリチュエルでアントン・シュターミッツのヴァイオリン協奏曲を弾いて喝采を浴びた。 1785年にヴェルサイユの宮廷オーケストラの一員に任命され、マリー・アントワネットの庇護を受けた。 1782年にヴィオッティがパリに来たときにクロイツェルはすでに豊富な経歴を積んでおり、実際にクロイツェルがヴィオッティに学んだことはない。 しかし、クロイツェルがヴィオッティを囲むサークルに所属していて、彼のヴァイオリニストと作曲家としての成長がそのサークルにより大きな恩恵を蒙ったことは疑いない。 クロイツェルは1810年に腕を折って独奏者としての経歴は終ったが、王室礼拝堂の楽長、オペラ座の首席指揮者、さらにオペラ座の音楽監督(1824―26年)などを勤め、指揮者、作曲家としても活躍した。 クロイツェルは、パリ・コンセルヴァトワール設立当初からヴァイオリン教授の地位につき、1826年に健康を害して職を辞するまで学生の指導に当たった。 ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタ作品47『クロイツェルソナタ』はこのクロイツェルに献呈されている。
  ピエール・フランソワ・バイヨ(Pierre Francois Baillot/1771―1842)はパリの音楽界において独特な地位を築いた。 ロードとクロイツェルが多くのヴァイオリン協奏曲を残して作曲家としても名を残している一方、バイヨは演奏家・教育者として一層の名を残している。 パリ・コンセルヴァトワールの教授に任命されたバイヨは、1803年にパリ音楽院でのヴァイオリン教授法の教本をロード、クロイツェルと共同で作り、その中にヴィオッティの演奏方法を詳しく取り入れた。 バイヨは1834年にこの教本を改訂する形で『ヴァイオリンの技法(L'Art du violon)』を著し、コンセルヴァトワールのヴァイオリン教本とした。
  ヴァイオリニストとしてのバイヨは“新しいタイプの演奏家”といえる。 18世紀と19世紀初頭の大演奏家たちは、自分の様式と個性にマッチした作品を自ら作曲して公共の場で演奏するのが通例であった。 作曲者の意図を探りながら他人の作品を演奏することは、ほとんど知られていない芸術であった。 バイヨはこれを積極的に行った。バイヨは時代を超えて偉大な音楽家たちの作品を紹介する”説明者”であった。 ハイドンやモーツァルトの四重奏曲を演奏し、ベートーヴェン、ケルビーニ、シュポーア、メンデルスゾーンなど、自分と同時代の人たちの音楽も演奏し、その作品の啓蒙に努めた。
 バイヨとヴィオッティとの関係は、生徒と先生ではなく、弟子と師匠の関係であった。 1782年に10歳の時にバイヨはパリでヴィオッティの演奏を聴いて深く印象付けられ、生涯にわたりヴィオッティを尊敬するようになった。 しかし、翌年家族がコルシカに移り、バイヨはそこで音楽教育を受けたと思われる。 1791年、ヴィオッティがパリを去ってロンドンに渡る1年前にパリに戻ってきた。 その時バイヨはすでに確立されたヴァイオリニストとなっていて、ヴィオッティは自分が経営していたフェドー劇場のオーケストラに採用した。
  3人の中でヴィオッティと最も堅く心が通い合っていたのはバイヨである。 バイヨがフェドー劇場でオーケストラの一員としてヴィオッティと接していたのはほんの短い期間であったが、1802年にロンドンに住んでいたヴィオッティが友人のチネリー一家と共にパリを訪問した時からお互いが堅い友情で結ばれるようになった。 二人は愛情のこもった手紙のやり取りをし、単に音楽家としてだけでなく、共通の感情を持って心と心が通い合う間柄となった。 それ以降ヴィオッティは自分を気にかけてくれるバイヨを心から頼りにしていた。 ヴィオッティの死後バイヨはセント・マリルボン墓地を何度も訪れている。 ヴィオッティが死んだ翌年の1825年に出版したバイヨの書、『Notice sur Viotti』は、ヴィオッティへの暖かい捧げ物であった。 バイヨこそヴィオッティを想い、心から慕っていた真の弟子であった。
  ロード、クロイツェル、バイヨの三人はパリ・コンセルヴァトワールのヴァイオリン部門を任され、数多くの後継者を養成した。 ヴィオッティの演奏スタイルは、パリ・コンセルヴァトワールで採用された教本に取り入れられ、後世に伝えられている。 ヴィオッティに傾倒した三人が同じ方向性を持って、ヴィオッティの演奏技術とそれを支えている演奏哲学を音楽学校の教育を通して後世に伝えたため、その演奏スタイルがヨーロッパ中に広がり定着していった。
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