GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(13)テアトル・ド・ムッシュー(王弟劇団)の創設

  1782年からの10年間ヴィオッティはパリで精力的に活動したが、特に1789年からの3年間はヴァイオリニストではなく、オペラとコンサートの興行主・劇場支配人として活動した。 革命の波が押し寄せる中、イタリア・オペラの上演を目指したテアトル・ド・ムッシュー(Theatre de Monsieur/王弟劇団、ムッシューは「王の弟」の意味)の設立と運営に精力を傾けた。
  革命黎明期のパリにおいて演劇・音楽活動の中心となった3大劇団はオペラ座(王立音楽アカデミー)、オペラ・コミック座(Theatre nationalde l’Opera-Comique)、テアトル・ド・ムッシューである。 テアトル・ド・ムッシューは、フランス革命直前の1789年1月にマリー・アントワネットの美髪師をしていたレオナール・オーティ(Leonard Autie)とヴィオッティにより創設され、後援者であった王の次弟、プロヴァンス伯爵にちなんで”王弟劇団”という名前がつけられた。 チュイルリー宮殿の大広間”機械仕掛けの間”を改装して公演場所とした。大規模なオーケストラを編成し、ロードやバイヨも加わった。ケルビーニを音楽監督に起用した。テアトル・ド・ムッシューは1789年1月26日に幕開けした。 イタリア人歌手の劇団(イタリア座)、フランス人歌手の劇団、フランス人俳優一座の3つの劇団が組織され、イタリア・オペラ(オペラ・ブッファ)を中心に、フランス・オペラ(オペラ・コミック)、フランス語の演劇(コメディ)、ヴォードヴィルなど、多様な出し物を提供しパリ市民の人気を得た。
  しかしすぐに革命騒ぎで大広間が閉鎖されたためテアトル・ド・ムッシューは1年ほどでチュイルリー宮殿を去ることになった。 この後、サン・ジェルマンにある定期市場に移動し、ヴァリエテ劇場(Salle des Varietes)を賃借りして1790年1月10日に活動を再開し、パイジェッロ、ピッチンニ、アンフォッシらのオペラを上演して民衆を喜ばせた。 オペラ公演の合間には音楽や歌が上演され、2月1日にはヴィオッティは自らの協奏曲を演奏し、5月2日にはヴィオッティの弟子のロードがヴィオッティの第13番の協奏曲を演奏した。
  1791年にヴィオッティは、フェドー通り19―21番地に2200人を収容する新しい劇場、フェドー劇場を建設し、テアトル・ド・ムッシューのための劇場を持つ夢を実現することができた。 フェドー劇場の建物は豪華なポンペイ型で、劇場正面のポーチは屋根付きになっていて、雨の日でも馬車から降りる観客を守っていたので、フェドー劇場付近はたちまちパリで最もファッショナブルな場所となった。新たな劇場に民衆は殺到した。 しかしそれにはオペラや音楽の愛好家とは別の種類の民衆、熱弁をふるう、横暴な、しばしば耳障りな民衆が含まれていた。革命の波が押し寄せ、愛国的な歌や革命歌を歌うことを要求し、上演が中断されることがしばしばであった。 レオナール・オーティは1791年7月にはすでに用心してイギリスに逃れており、ヴィオッティが一人で劇団の長として残っていた。 テアトル・ド・ムッシューは劇団名が”王の弟”の称号からとられていて、王室とのかかわり合いからヴィオッティの身も危険となった。そのため、劇団名をフェドー座(テアトル・フェドー)と名乗ることにした。
  革命は激しくなり、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが逮捕、投獄されてから20日後、1792年7月21日(または22日)に、ヴィオッティは負債を支払うためにできる限りのものを売り払い、フェドー座のことをケルビーニに任せてロンドンに脱出した。 イタリア人の歌手たち(イタリア座)は1792年8月までフェドー劇場に残ってオペラ・ブッファを提供していたが、革命が激化したため、次第にパリを離れていった。

1791年にオープンしたフェドー劇場
  ここで”劇場”について触れる。フランス語と英語の辞書によれば、
Theatre(仏)は@演劇、芝居 A劇(作品) B劇場、劇団
Theatre(英)は@劇場 A演劇、劇団 B(活動の)舞台
となっている。ところで日本語の”劇場”はどんな意味かといえば、演劇・映画を見せるための建築物(広辞苑)、である。明鏡国語辞典の説明も同じである。 つまりテアトル・ド・ムッシュー劇場、王弟劇場と日本語で書いたときの”劇場”は、建築物を指すと解釈するのが一般的といえる。 フランス語ではテアトルは建物というよりも演劇、芝居の意味が強い。英語でシアターは建物の意味が強い。仏、英いずれも劇団を指すこともある。 日本語で”劇場”は建物なので、Theatreを訳すのは注意が必要である。
 ヴィオッティが設立したテアトル・ド・ムッシューは、チュイリュリー宮殿の大広間を使ってオペラや芝居を上演する目的で組織された団体であった。 つまり、建物ではない。したがって、これを日本語でテアトル・ド・ムッシュー劇場とか王弟劇場とすると建物が想像され、誤解を招くおそれがある。 それにも拘らず、多くの解説書でそのように書かれている。例えば、
 テアトル・ド・ムッシューという新しいオペラ劇場を設立した(ニューグローヴ辞典)
 新しいオペラ劇場テアトル・ド・ムッシュー(後のフェドー劇場)(ラルース音楽事典)
ところで、”劇場”はもう少し広い意味で使われている。テレビ番組で、”衛星劇場”、”芸術劇場”、”日曜お笑い劇場”のようなエンターテイメント・チャンネルを指すのにも使われている。 これは建物ではなく、映画や劇を提供する”場”である。また、”・・・カゴメ劇場”のように全国主要都市で公演しているミュージカル、演劇そのものを指すこともある。 ヴィオッティのテアトル・ド・ムッシューは劇団であるが、演劇、オペラ、コンサートを提供する”場”を意味していたとも考えられ、広い意味で使われる”劇場”としてテアトル・ド・ムッシュー劇場と言うこともできる。 ニューグローヴ辞典の場合、“この劇場は1791年にフェドー座と改称した”と説明があるので、テアトル・ド・ムッシュー劇場を劇団と見ている。 一方、ラルース音楽事典では、“後のフェドー劇場”といっているので、建築物として理解されている。
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