GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(12)パリのサロンとヴィオッティ

  ヴィオッティがパリに到着した1780年代のパリでは、貴族や上流社会の人、作家、芸術家、音楽家が集まる私的な”サロン”が数多く出現していた。 サロンは財力のある者が自宅を解放して客人を集め、特定の話題について議論を交わす小規模集会で、開催曜日を決めて定期的に行なわれていた。 参加者は招待客だけで構成されており、多くの場合音楽も演奏された。 各サロンの音楽会は、パリの音楽活動としては公共での演奏会に匹敵するほど充実していた。 バッジュ男爵(Baron de Bagge)、エルヴェシウス夫人(Mme Helvetius)、エリザベス・ヴィジェー・ルブラン(Elisabeth Vigee Lebrun/1755-1842)、ド・ジャンリス夫人(Mme de Genlis)などのサロンはその代表的なものである。
  バッジュ男爵はアマチュアのヴァイオリニストで、外国からやってきた音楽家をサロンでのコンサートを通して支援していた。 アマチュアといってもイタリアに渡ってタルティーニに教えを受けたり、ウイーンに行ってモーツアルトの前で演奏したりしている。 バッジュ男爵のサロンは音楽家の集まりで、金曜日毎にプロの音楽家とアマチュアの一流音楽家がヴィクトワール広場のラ・フューヤード通りの邸宅に集まった。 このサロンのコンサートは有名で、コンセール・スピリチュエルに登場する外国人演奏家はここでデビューするのが慣わしで、ヴィオッティもコンセール・スピリチュエルにデビューする前にここで演奏している。 バッジュ男爵はこのサロンの出演者に別のサロンを紹介したり、レッスンを受ける生徒を紹介するなど、外国人演奏家がパリで成功する手助けをしていた。
  毎週火曜日に開かれていたオートイユ(Auteuil)にあったエルヴェシウス夫人のサロンは、哲学者や科学者の集まりであった。 当時の思想家マルモンテル、モルレ、ディドロ、それにアメリカからフランスを訪問中のベンジャミン・フランクリンも参加していた。 ヴィオッティは音楽家の集まるサロンに出席していたが、このエルヴェシウス夫人のサロンにも出入りを許されていて、多くの文学者や芸術家の話に加わった。 ヴィオッティはトリノのチステルナ宮殿において多くの教育を受けていた。 若い時にはルソーの著作を好んで読んでいたし、パリでは『シャルルの法則』で有名なシャルルに物理学を教えてもらい、植物学の勉強もした。 ヴィオッティが音楽以外にも教養のある人物であった。

  ヴィジェー・ルブラン夫人はヴィオッティと同年の生まれ、マリーアントワネットの肖像画を初め、多くの肖像画を残している女流肖像画家である。 ヴィジェー・ルブランはクレリィ通りの自宅でサロンを開いていた。
  クレリィ通りはヴィクトワール広場からメイユ通りを挟んでサン・ドニ広場に続く通りで、現在はカーテン生地をはじめ様々な生地の問屋街になっている。 画家で画商のピエール・ルブラン(Jean-Baptiste-Pierre Lebrun)は19番地と21番地の2軒がセットになった家を1775年に借りうけた。 翌1776年に21歳の女流肖像画家エリザベス・ヴィジェーと結婚した。 ヴィジェー・ルブランはヴィオッティとも知り合いで、ヴィオッティの肖像画も残している。 ピエール・ルブランは1778年にこの家を買い取り、そこに広さ14m×10m、高さ6.5mの豪華な展示場を作った。 ヴィジェー・ルブラン夫人はそこでサロンを開いて夜会コンサートを行い、ヴィオッティが頻繁に訪れた。 その様子は自己の回想録からわかる。「私はサロンに集まる人たちに楽しんでもらうことが好きでした。 私の夜会コンサートで演奏される音楽はパリで聴くことができる最高のものであり、多くの人が集まってきたため、政府の高官といえども廊下で座って待つ事もあった。 作曲家のグレトリィ、サッキーニ、マルティーニなどは、自分のオペラを上演する前にこのコンサートでその一端を披露した。 歌手ではガラ、トーディ夫人などが出演し、器楽奏者としてはヴァイオリニストのヴィオッティを迎えた。 ヴィオッティは大変優雅で、力強く、表現に富んだ演奏をした」。
  なお、ヴィジェー・ルブランはフランス革命を逃れて外国を廻り画家として生活するが、ナポレオンが亡命貴族を恩赦にしたので1802年にパリに戻った。 そして翌年イギリスに旅行し、ロンドン郊外のギルウェル・パークにあったチネリー家でヴィオッティと再会している。
  リスターはヴィオッティのサロンへの出入りの状況を調べ、ヴィオッティが公共の場での演奏を取りやめた理由を考察している。 ヴィオッティの最初の2年間はパリでの演奏活動を確立するためにバッジュ男爵をはじめ貴族のサロンを廻った。 有力な後援者と接触するためであった。その後は1789年頃までサロンへの出席の目的が変わり、音楽分野で友人たちと活動することが目的になってきた。 自宅で生徒たちと一緒に演奏したり、ヴィジェー・ルブラン夫人のような友人の家で声楽の人たちを指導しながら、気楽に楽しみながらの参加であった。 ヴィオッティは数多くの聴衆から喝采を受けるよりも、気の合ったグループから称賛され認められることに一層高い価値を認めていて、それがヴィオッティの芸術上の性格だったろう、とリスターは推測している。 1783年にパリにおいて公共の場での演奏を止めたのは、ヴィオッティ自身の本意であったといえるだろう。
 

参考文献
[1] Richard Viano, Recherches sur la musique francaise classique, 27, pp131-162 (1991-92)
[2] Warwick Lister, Giovanni Battista Viotti; A composer between the two revolusions, ed. by M. Sala, UT Orpheus (2006).
[3]
菊池修 ”ヴィオッティ” 慧文社 (2009).
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