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GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(11)友人ケルビーニ
ルイージ・ケルビーニ(Luigi Cherubini /1760―1842)は、フランス革命からナポレオン時代を経て王政復古に至るフランス革命期においてパリで活躍したオペラ作曲家・教育者である。
ヴィオッティとは特に関係の深かった人物である。
ケルビーニはヴィオッティより5歳年下、フィレンツェで音楽家の息子として生まれた。
6歳の時から、チェンバロ奏者であった父親に音楽の手ほどきを受け、9歳から音楽学校で対位法、声楽、オルガンを学んだ。
18歳から20歳にかけてボローニャとミラノでジュゼッペ・サルティ(Giuseppe Sarti)についてイタリア・オペラを勉強した。
1784年にロンドンに渡り、その後パリに渡ってヴィオッティと出会い、パリでの活動をスタートさせた。
ケルビーニはパリに来る前にはナポリ派のスタイルによるオペラを数多く作曲していた。
1788年に最初のフランス・オペラ『デモフォン』でパリ・オペラ座にデビューした。
1789年にヴィオッティたちによりオペラや演劇を上演するためにチュイルリー宮殿に設立されたテアトル・ド・ムッシュー劇団の音楽監督に就いた。
テアトル・ド・ムッシュー劇団のための劇場としてヴィオッティが建設したフェドー劇場が、革命の最中の1791年1月にオープンし、ケルビーニの『ロドイスカ』は、革命の嵐が荒れ狂う中、その年の7月18日にヴィオッティの努力によりフェドー劇場で上演され成功をおさめた。
翌年ヴィオッティは革命の嵐を逃れてロンドンに渡ったが、ケルビーニはフェドー劇場の音楽監督の地位に残り、1797年にフェドー劇場においてオペラ史上の記念碑ともいえる『メデー』を発表した。
1800年には『二日間』の傑作で名声を確立し、フランス・オペラ、グランド・オペラの先駆者となった。
この間ケルビーニはパリ・コンセルヴァトワール(パリ音楽院、1795年に設立)の5人の視学官の一人に任命され、コンセルヴァトワールでの教育で中心的役割を果たすことになった。
ケルビーニにとってナポレオン時代は苦しい時代であった。ナポレオンとケルビーニの間で、音楽のことよりも個人的なことで信頼関係が失われていた。
さらに、活動の場であったフェドー劇場が閉鎖され、オペラ座が皇帝の栄光を得た真の殿堂となりつつあった。
ナポレオンがパイジェッロをパリに呼びよせたり、スポンティーニに目をかけたりしたため、ケルビーニに残された仕事はコンセルヴァトワールでの教師の職と外国での活動の2つとなったが、彼の革命的なオペラは国外で成功した。
ベルリンでは1797年に『ロドイスカ』が上演され、ドイツ語での『メデー』が1800年に、『二日間』が1802年にそれぞれ上演された。
これら3つのオペラは全部ベートーヴェンも出席する中、ウィーンでも上演されている。
ナポレオンが失脚した後ルイ18世が王位について、ケルビーニにとって事態は好転した。
しかし、パリの音楽界における先導的な地位を再び取り戻すことはしなかった。
世の中の時流は変わってイタリア人のロッシーニら若いロマン派の人の時代になりつつあることを良く認識していた。
ケルビーニは自分の進むべき道として、教師としての地位を確固たるものとした。
1822年パリ・コンセルヴァトワールの学長に就任し、1841年に老齢で引退するまで約20年間にわたって多くの音楽家を育成した。
パリでのケルビーニの成功は無二の親友であったヴィオッティによるところが極めて大きい。
ケルビーニがヴィオッティよりも3年ほど後にパリに来た時、ヴィオッティは宮廷音楽家としてフランス王室や有力な貴族との交際の実績があった。
ヴィオッティがケルビーニと出会ったのは1785年のことで、それ以来二人は生涯にわたって交友関係を結んだ。
ヴィオッティはケルビーニをマリー・アントワネットや文筆家で台本作家のマルモンテル(Jean-Francois Marmontel)とフロリアン(Jean-Pierre Florian)、それに王室に出入りする音楽家たちを紹介して、ケルビーニがパリにおける作曲家としての経歴の第一歩を踏み出すための支援をした。
二人が最初に出会った頃、ヴィオッティはリシュリュー通り40番地にあった家具付きアパートのオテル・ド・シャルトルに住んでいた。
1786年にケルビーニがパリに定住することを決めた時から、ヴィオッティが1792年にパリを去る時まで、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール通り20番地、ミショディエール(Michodiere)通り8番地などに二人は共同で家を借りていた。
パリ市東部にあるペール=ラシェーズ墓地には、パリで活躍した文学者や音楽家の墓がある。
公園のような墓地にはロッシーニ、ボイエルデュー、ショパン、ビゼーなどの墓がある。
ケルビーニの墓は11区に、ショパンの墓のすぐ傍に堂々と立てられている。
また、出身地のフィレンツェの国立音楽院にはケルビーニを称えて”ケルビーニ音楽院”の別名がつけられている。
パリ市ペール・ラシェーズ墓地にあるケルビーニの墓 リシュリュー通り40番地
参考文献 菊池修 ”ヴィオッティ” 慧文社 (2009).
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