GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(10)ヴェルサイユ宮廷との深い関わり
パリでデビューした1782年、ヴィオッティは3月から5月にかけて合計11回コンセール・スピリチュエルに出演してヴィオッティ・ブームを引き起こした。
翌1783年のコンセール・スピリチュエルでも、ヴィオッティは4月のコンサートにはほとんど毎回のように出演し、5月以降は9月8日まで、16回コンサートに出演して演奏している。
ところが、9月8日を最後に、ヴィオッティの名前は突然プログラムから消え、二度とコンセール・スピリチュエルで演奏しなかった。
パリのデビューが1782年3月なので、1年半あまりの間パリの音楽界に大旋風を巻き起こしたヴィルトォーゾが公共の場から突然姿を隠した。
その理由や経緯についてははっきりしていないが、その後すぐに、ヴィオッティはヴェルサイユでマリー・アントワネット専属の音楽家になっている。
ヴェルサイユ宮殿はブルボン朝ルイ14世の時代に建てられ、建築、絵画、彫刻、装飾、庭園のいずれにおいても豪華絢爛さを誇り、ルイ14世以下3代のフランス国王の朝廷生活の拠点であった。
ルイ14世は音楽をこよなく愛し、毎日の儀式に欠かせない音楽のほか、音楽家たちを呼んで声楽や器楽曲を楽しんだ。
ブルボン家とオーストリアのハプスブルク家とは長い間ヨーロッパにおける覇権をめぐって戦いを続けていたが、18世紀後半には平和を求めて同盟を結び、1770年に、後にルイ16世となるベリー公爵とマリア・テレサの娘マリー・アントワネットの結婚式を挙げた。
1774年のルイ15世の死去の後、マリー・アントワネットはルイ16世の王妃として3人の子供をもうけるが、退屈で窮屈な宮廷生活から逃れて自分の時間を謳歌するために小トリアノンで日常生活を送った。
トリアノン宮はヴェルサイユ宮殿の建物から庭園に向かって右前方約1.5キロの所にある。大トリアノンと小トリアノンとからなる。
マリー・アントワネットのお気に入りだった小トリアノンには自然の風景を取り入れて趣向を凝らしたた庭園があり、田舎家と称するわらぶき屋根の農家が立ち並ぶ。
野菜畑や花畑の中に王妃の館、愛の殿堂、八角形の小さな音楽堂が配置されており、宮殿内のきらびやかな装飾とは違った別のヴェルサイユを経験できる。
小トリアノンの建物自体は小さいもので、現在はマリー・アントワネットを偲ぶ美術館となっている。
その2階の”控えの間”には女流肖像画家ヴィジェー・ルブランが描いたマリー・アントワネットの肖像画が壁に掛けられている。
ヴィジェー・ルブランはヴィオッティと同年の生まれ、マリー・アントワネットの肖像画をはじめとして多くの肖像画を残している。
ヴィオッティとも知り合いで、パリのクレリィ通りにあったヴィジェー・ルブランのサロンでヴィオッティはヴァイオリン演奏を披露している。
また、”お供の間”にはピアノとハープが置かれている。小さな建物であるがヴィオッティはマリー・アントワネットの専属音楽家としてトリアノンの館や庭園にある音楽堂でヴァイオリンを披露したことであろう。
マリー・アントワネットはハープを演奏した。一時期、毎日のように練習をしていたようで、かなりの腕前だったと思われる。
ヴィオッティの伴奏でソナタなど演奏して楽しんでいたのではないだろうか。
ヴィオッティの『自伝』にあるように、大志を抱いていたヴィオッティにとって、このような宮廷での音楽活動では十分に欲求が満たされなかったが、楽しい時期であったろう。
ルイ16世には弟が2人いた。プロヴァンス伯爵とアルトワ伯爵である。プロヴァンス伯爵が兄で、王政復古後にルイ18世として王位に就いた人である。
サルディニア王ヴィットリオ・アメデーオ3世の娘ルイーズ・マリー・ジョゼフと結婚し、フランス革命では第3身分に加担したが、1791年にベルギーに亡命し、その後コブレンツで亡命貴族の指導者となった。
ルイ16世が処刑された後は、ルイ16世とマリー・アントワネットの次男ルイ17世をフランス王にたて、自らは摂政を宣言した。
ルイ17世が1795年に死去すると、プロヴァンス伯はルイ18世を自称し、フランスにおける王政復古を目論んだ。
ナポレオン1世が失脚後、ウイーン会議によってブルボン朝が復活、23年間の亡命生活の後、外国勢力の影響力の下であったがフランス国王の座に就いた。
外国の影響力のため、自由主義思想に対抗して反動政治を行って国民の不満をよんだ。
ナポレオンの百日天下で再び亡命するが復帰し、死去する1824年まで王位にあった。
マリー・アントワネットの専属の音楽家となってヴェルサイユ宮廷に入ったヴィオッティは、宮廷の貴族や、ロドルフ・クロイツェル、ピアニストのヒュルマンデル、ドゥセクなどの宮廷に出入りする音楽家たちとも親交を深めていった。
ヴィオッティはこの経歴を生かし、王妃専属の音楽家を退いた後にプロヴァンス伯爵やアルトワ伯爵の支援を得てチュイルリー宮殿に新しい劇団を開設できた。
その劇団の名前はプロヴァンス伯爵から取って、テアトル・ド・ムッシュー(王弟劇団)と名付けられた。
テアトル・ド・ムッシューはチュイリュリー宮殿内の大広間を利用してオペラや演劇をなどを上演する劇団のことで、建物ではない。
後にこの劇団専用の劇場がフェドー通りに建てられ、フェドー劇場と呼ばれた。
プロヴァンス伯爵はヴィオッティの音楽に大いに共感し、ヴィオッティの活動を支援した。
これに対してヴィオッティは、革命の最中、貴族との関わりが危険であったにも拘らず、フェドー劇場に移った後も”王弟劇団”という名称を使い続けた。
このような貴族との係わり合いが結局はヴィオッティをフランスから追いやることになった。
ヴィオッティは革命でロンドンに逃れ、ロンドンでも演奏家・作曲家として人気を博し成功する。
王政復古後にはフランス王ルイ18世となっていたプロヴァンス伯爵の後押しを得てパリ・オペラ座の監督になるが、不幸にも1820年2月13日にオペラ座前で暗殺事件が起こる。
殺されたのはアルトワ伯爵の次男で、ルイ18世の甥にあたるベリー公爵であった。
ベリー公爵が王位継承権のある人だったので、オペラ座監督のヴィオッティに責任問題が生じてオペラ座を辞任することになった。
このように、ヴィオッティの生涯はフランス宮廷とは様々なところで深く関わっていた。
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