GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(9)衝撃のパリデビュー
ヴィオッティはヨーロッパ演奏旅行からの帰りにパリに立ち寄り、1782年3月17日にコンセール・スピリチュエル音楽会において自身のヴァイオリン協奏曲でパリ・デビューを果たし大成功を収めた。
力強く、歌うような新しいタイプの演奏方法は、聴衆のみならずパリの若きヴァイオリニストたちに強い刺激を与えた。
コンセール・スピリチュエル(Concert Spirituel/宗教音楽会)はパリのチュイルリー宮殿において1725年にアンヌ・ダニカン・フィリドール(Anne Danican Philidor/1681―1728)により創立され、66年間続いた音楽会の名前である。
18世紀後半のパリはヨーロッパ文化の中心の一つで、他のどの都市に比べても劣らない程音楽活動が盛んであった。
コンセール・スピリチュエルは声楽と器楽曲を中心とした公開の演奏会で、オペラ以外の音楽活動としてはパリの娯楽の中心となる組織であった。
ここにはヨーロッパ音楽界にデビューするための登竜門として、フランス以外、特にイタリアから多くの演奏家が集まった。
"スピリチュエル"と呼ばれたのは、この音楽会がイースター(復活祭)の2週間の間に宗教的な催しとして開催されたからである。
1725年頃のパリはオペラ上演が盛んであった。王立音楽アカデミー(いわゆるオペラ座のこと)はすでに1672年に創立され、パレ・ロワイヤル劇場でオペラを上演していた。
コメディ・イタリエンヌ、コメディ・フランセーズも活動していた。
復活祭の期間中はこれらの劇場が閉鎖されたため、その間パリ市民に楽しみを提供するための音楽会を開催するため、フィリドールはチュイルリー宮殿の"スイスの間"を使用する権利を国王から授与された。
コンセール・スピリチュエルがスタートしたのは1725年で、3月18日のキリスト受難の日に始まり、この年は全部で13回のコンサートが開かれた。
プログラムは器楽作品とラテン語の宗教曲からなっていて、第1回目のコンサートではラランド(De Lalande)のモテット2曲とコレッリのコンチェルト・グロッソ(作品6―8のクリスマスコンチェルト)、それにカンタータ・ドミノであった。
演奏者の規模は、器楽奏者が18人、コーラスを含めて全部で約60人の構成であった。
1745年頃から毎年のコンサートの回数が20〜25回となり、一時期極端に不活発な時期もあったが、1790年にこの音楽会が閉鎖されるまで、毎年20回以上のコンサートが開催された[1]。
コンセール・スピリチュエルのオーケストラはヨーロッパで最も熟練したオーケストラの一つであるとの評判を得た。
66年間の活動の中で、多くのの作曲家の作品が取り上げられたが、ハイドンの作品は256回演奏され、ヴィオッティの作品は50回演奏されている。
演奏者としてヴィオッティは27回出演しており、ヴァイオリニストとしてはコンセール・スピリチュエルでの出演回数が最も多い。
ヴィオッティがパリに到着した正確な月日はわからない。1781年の末か1782年初めではないだろうか。
1781年12月にベルリンに滞在しており、1782年3月にはコンセール・スピリチュエルで最初の演奏を披露しているので、その年の1月頃までにはパリに到着したものと思われる。
パリに到着したヴィオッティはコンセール・スピリチュエルに出演する前の週に私的なコンサートで演奏している。
そのコンサートは、アマチュアのヴァイオリニストで、パリを訪れる音楽家を支援するパトロンとして有名なバッジュ男爵の家のコンサートと考えられている。
バッジュ男爵はヴィクトワール広場に通じるラ・フューヤード通りに邸を構え、豪華な食事と音楽パーティを催すことで知られていた。
パリを訪れた音楽家たちはコンセール・スピリチュエルで演奏する前にここで演奏するのが慣わしであった。
ヴィオッティは1782年3月17日のコンセール・スピリチュエルにおいて、自分の協奏曲を弾いて大成功を収め、一躍パリ音楽界の寵児となった。
この日はキリスト受難の日で、その年のコンセール・スピリチュエルの第2回目のコンサートで、曲目は次の通りであった。
ロゼッティのシンフォニー
ゴセック作曲のラルシュ・ダリアンス―ガゼ嬢、ルグロ、シェロン
チェロ協奏曲―ブレヴァルの作曲と独奏
カンデーユのモテット―シュナール
ホルン協奏曲―フォーグラー作曲、プント独奏
イタリア歌曲―ビュレ嬢
ヴァイオリン協奏曲―ヴィオッティの作曲と独奏
メユールの聖なる頌歌―ビュレ嬢とシェロン
このプログラムからわかるように、このコンサートの主役はヴィオッティが担当した。
ヴィオッティの協奏曲は第1番ハ長調であろう。ヴィオッティはヴァイオリン協奏曲を29曲作曲している。
協奏曲第3番はトリノで、第2番は最初のベルリン訪問の後にワルシャワかサンクトぺテルグルクでの演奏のために、そして第1番がパリにおけるデビューのために作曲されたと考えられている[2]。
ヴィオッティの演奏に対してメルキュール・ド・フランスは、「ヴィオッティ氏はこの20年間にコンセール・スピリチュエルで演奏した最高のヴァイオリニストの一人であることに疑いない」と批評した。
パリ・ジャーナルは、「これ程力強いヴァイオリンはロッリ以来である。極めて難しい曲をいとも明瞭に、しかも信じられないほど流暢に演奏したのには驚かされた」と伝えてた。
また、メモワール・セクレは、「ヴィオッティ氏は、キリスト教主日の日曜日に自身のヴァイオリン協奏曲を演奏し、この国において高い評判を瞬時に獲得した。
真に迫った演奏、高度な出来映え、そして驚くほどに質の良いアダージョ、これらはこの芸術家を最も偉大な大家に位置づけた」と記録している。
こうしてコンセール・スピリチュエルの長い歴史の中で最も成功を収めたデビューとなり、ヴィオッティのヴァイオリンの明確な響きと運弓の手並から生まれる生き生きとした演奏と演奏技法は、18世紀後半におけるヴァイオリン演奏に革命をもたらすことになった。
ヴィオッティのパリ・デビューに対するメルキュール・ド・フランスの批評
[1]Pierre, Constant. Histoire du Concert Spirituel 1725-1790, Pairs: Societe Francaise de Musicologie, 1975.
[2]White, Chappell. From Vivaldi to Viotti: A history of the early classical violin concerto, Longhorne:
Gordon and Breach, 1992, p.333.
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