GIOVANNI BATTISTA VIOTTI

イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。


(7)トリノ宮廷礼拝堂楽団とヴィオッティ

  18世紀に栄えたヴァイオリン演奏のピエモンテ派は17世紀末にサヴォイア家の王室礼拝堂楽団(王室カペラ)の中に創設された。トリノの宮廷音楽はすなわちサヴォイアの宮廷音楽である。 ヴィオッティがトリノに来た頃、トリノはサヴォイア家が興したサルディニア王国として栄え、その宮廷音楽は隆盛を極めていた。
  サヴォイア家は11世紀から続いた王家で、神聖ローマ帝国の支配の下、現在のフランス南東部のサヴォワ県とイタリア北西部ピエモンテ地方でサヴォイア公国として勢力を持っていた。 11世紀初頭にウンベルトは神聖ローマ皇帝よりアルプス地方を領土として授かり、サヴォイア伯爵として知られるようになった。 1416年にメデーオ8世が公爵の称号を得てサヴォイア公国ができた。 サヴォイア公爵は、アルプスのモンスニ峠を介してフランス側のシャンベリーとイタリア側のトリノのそれぞれに高等法院や会計院を設置して統治した。 1563年に首都がシャンベリーからトリノに移され、公用語がイタリア語となるなどして、イタリア人中心の政策へと転換された。 1720年、サヴォイア公ヴィットリオ・アメデーオ2世はサヴォイア、モナコ、ニース、ピエモンテ、それにサルディニア島を含めてサルディニア王国を興し、サルディニア王となった。
  トリノでの音楽が最高潮に達したのはヴィットリオ・アメデーオ2世、カルロ・エマヌエレ3世、ヴィットリオ・アメデーオ3世の時代であり、ヴァイオリン演奏と作曲を行うピエモンテ派が活躍した。 ヴィットリオ・アメデーオ2世はソミスをローマに派遣してコレッリに学ばせ、カルロ・エマヌエレ3世はプニャーニをローマに派遣し、ヴィットリオ・アメデーオ3世はヴィオッティを王室礼拝堂楽団のヴァイオリニストに任命した。

  カペラ(Cappella)は英語のチャペル(礼拝堂)の意味の他に「聖歌隊」の意味もある。 サヴォイア家の歴史に見られるカペラ・ドゥカーレなどの「カペラ」は、ソプラノ、テノール、バスなどの歌手と弦楽器、管楽器などを担当する器楽奏者から構成されている音楽家集団を意味した。 教会又は宮廷において仕える「声楽家と器楽奏者の結合体」という内容である。 カペラのマエストロ(楽長)は歌手と器楽奏者の両者を指揮下に置いた。 サヴォイア公国の首都シャンベリーにおいては、宮廷カペラは15世紀の最初の10年の間に作られた。 16世紀半ばまではシャンベリーが音楽の中心で、パリとの交流によりシャンベリーに多くの音楽家が集まった。 戦勝の祭り、笑劇、行進のための音楽など、教会とは関係のない世俗的な祭を行った芸人たちがパリ方面からシャンベリーを訪れ、サヴォイア家の音楽における名声を外に広める役割を果たした。 1563年にサヴォイア公国の首都がシャンベリーからトリノに移り、フランス派とイタリア派が一緒になってピエモンテ派となるなど、音楽に新しい勢力団体が形成され、首都トリノでの音楽生活も高度なものとなった。 17世紀中頃に音楽分野で改革が行われ、礼拝堂の音楽家(Cappella)と宮廷音楽家(Camera)、フランソワ・ファリネルの率いる12人のヴァイオリン奏者などが合体した。
  18世紀に入りヴィットリオ・アメデーオ2世が王位についたので公爵カペラは王室カペラとなり、器楽部門には完備された弦楽器に加えて更にオーボエとファゴットも加わった。 声楽グループはソプラノ、アルト、テノール、バスを備え、アンドレア・ステファノ・フィオレ、アントニオ・ジアイなどのマエストロの指導の下に活動した。 音楽家としても名高いジャン・ジャック・ルソーは16歳の時トリノを訪れている。 トリノでは軍楽隊の楽器、聖歌隊の歌、それに宮廷楽団の演奏のすばらしさに感動した。 王のミサに定期的に出席していたが、ミサの荘厳な奥ゆかしさにはすぐに飽きてしまったが、そこでの音楽演奏がすばらしかったため、ミサへの出席を楽しみにしていた。 これはトリノにおける宮廷楽団の質の高さを物語る逸話である。
  サヴォイア家の王室カペラのオーケストラは、音楽を職業とするいくつかの家系が中心となって編成されていた。 これらの家族のメンバーたちは、楽団員の世代が代わっても安定的に楽団を組織できるように複数の楽器を演奏できるように準備していた。 父親から息子に仕事を伝承していくことが、小都市の音楽文化の歴史において重要な要素であった。 これらの家系として、カナヴァッソやチェロニアティ一族がいた。 チェロニアティ一族の場合、ヴィオッティがトリノにいた1771年には、第2ヴァイオリンのジュゼッペ、バス担当のエウジェーニオ、コントラバス担当のジョヴァンニ・バッティスタの3兄弟とその息子たち4人が王室カペラのメンバーであった。 息子たちの一人、カルロ・アントニオ・チェロニアティがヴィオッティのトリノにおける最初のヴァイオリンの先生である。 これらの一族は主にヴァイオリンに専念していたが、同時に他の楽器や作曲にも献身的に努力し、構成員が欠けた場合にはそこを補充しながら楽団を維持する役割を担っていた。 すなわち世襲的に楽団員を出しながら多方面に対応できる器楽奏者の家族たちである。
  ヴィオッティは1775年12月27日に王室カペラに仮採用され、翌1776年3月5日に年俸200リラの給与で正規の楽団員に採用された。 ヴィオッティが正式に王室カペラに採用された時期の王室カペラの構成員と給与表を見てみよう。 当時の王室カペラの歌手は8人で構成され、器楽奏者はヴァイオリンの13名を含めて29名、マエストロ、オルガン職人などを含めて総勢42名であった。 歌手たちの給与は器楽奏者に比べて高く、テノール歌手バステリスの1600リラという金額は、楽長のジアイや第一ヴァイオリンのプニャーニとほぼ同じで、他の歌手たちもほとんどの器楽奏者より高給であった。
  ヴィオッティの待遇は200リラで最下位であるが、その程度の年俸でスタートするのが通例であった。 プニャーニの場合、16歳の時年俸200リラで王室カペラのヴァイオリニストに任命されているが、一般的には王室カペラに採用されるのは25―30歳で、20歳で採用されるのは優秀な人材であった。 チェロニアティ家の場合、ロレンツォは20歳のとき100リラで採用され45歳までに段階的に500リラまで昇給している。 アントニオは26歳の時、ヴィットリオは27歳の時、いずれも200リラで採用されている。 ヴィオッティは20歳、200リラで正式に採用されており、ヴィオッティの優秀さは正当に評価されていたといえる。 ヴィオッティは「王室カペラでは最も低い賃金を受けていた」と評するのは事実ではあるが、ヴィオッティの力量が低く評価されていたわけではない。
  ヴィオッティは1779年の末には先生のプニャーニと演奏旅行に出発し、トリノには戻らずにパリなどで活躍することになるが、王室カペラの団員としては、1785年まで登録されていた。
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