GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(5)ヴォゲーラ侯爵夫人と令息アルフォンソ
ヴィオッティの父親フェリーチェは鍛冶屋であったが角笛を奏して音楽を楽しむ趣味を持った教養のある人物であった。
土地の音楽愛好家たちがヴィオッティの家に集まってコンサートを行ったが、そんな時にはフェリーチェは狩りの角笛を相当の腕前で演奏した。
そういう意味ではヴィオッティは貧しいけれども音楽のある家庭に生まれたといえる。
また、父親から最初に音楽の指導を受けたことも間違いない。
父親は息子ジョヴァンニに音楽の才能があることを幼少の頃から気付いていたのだろう。
ヴァイオリンを与え、当時リュート奏者でフォンタネット・ポに1年ほど滞在していたジョヴァンニ・某と呼ばれた音楽家に付いてレッスンを受けさせた。
ヴィオッティは幼少の頃からヴァイオリン演奏では頭角を現していた。
1766年、ヴィオッティは父親と一緒に、フォンタネット・ポの音楽愛好家でオーボエ奏者のジョヴァンニ・パヴィアという人に連れられて教会の祝祭が行われたストランビーノ(Strambino/フォンタネット・ポの北西約30qの村)に行った。
この祝祭にはイヴレア(Ivrea/ストランビーノから北へ10qのところの町)の司教で、後にトリノの大司教となったフランチェスコ・ローラ卿が列席していた。
聖なるミサが終了した後で、オーケストラの全員とヴィオッティはローラ卿の食卓で音楽を演奏した。
ローラ卿はヴィオッティの才能と態度に感心し、トリノのダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家に推薦しようと考えた。
トリノのダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家では令息のジュゼッペ・アルフォンソと、母親で後見人のヴォゲーラ侯爵夫人が、アルフンソと一緒にヴァイオリンを奏でる友達を探していた。
ヴィオッティと父親はこの申し出をありがたく受けて、ローラ卿からもらったヴォゲーラ侯爵夫人宛の推薦書を携えてトリノへと向かった。
ジュゼッペ・アルフォンソとヴォゲーラ侯爵夫人は大変喜んでヴィオッティを快く迎えてくれた。
これがヴィオッティの運命を切り開かせた最初の大きな出来事であった。
ジュゼッペ・アルフォンソとヴォゲーラ侯爵夫人、それにローラ卿こそ、後にヨーロッパにおいてヴァイオリン演奏で新しい道を切り開いたヴィオッティを生み出した功労者といえるだろう。
ヴィオッティを迎えてくれたヴォゲーラ侯爵夫人とジュゼッペ・アルフォンソのダル・ポッツォ・デラ・チステルナ(Dal Pozzo Della Cisterna)家の家系は、きわめて古い歴史をもっている。
その数多い一族はイタリアとフランスの広い範囲に居を占めていたが、トリノから北北東60qに位置するビエッラ(Biella)が最も重要な都市であった。
ビエッラではダル・ポッツォ家は古くから公共の職業を占有しており、富裕市民の貴族階級の中で最高の称号を得ていた。
一族はポンデラノ(Ponderano)伯爵(1559年)、レアノ(Reano)伯爵(1582年)、ヴォゲーラ(Voghera)侯爵(1611年)、チステルナ(Cisterna)侯爵(1650年)、チステルナ領主(1670年)などの称号を得ていた。
チステルナはトリノから南東40q、アスティ(Asti)から南西20qに位置する人口1200人程の村である。
この地は12世紀前半からはアスティの司祭に委譲され、その後様々な経過を経て、1650年にヴォゲーラ侯爵のフランチェスコ・ダル・ポッツォに売却された。
フランチェスコの息子のマウリッツオは1670年にローマ教皇クレメンテ10世より勅書を得てチステルナの領主となった。
チステルナの領主でありヴォゲーラ侯爵でもあったジュゼッペ・アメデーオは1742年にアンナ・エンリケッタと結婚し、アンナはヴォゲーラ侯爵夫人となった。
子供を6人儲けたが、唯一の男児が4番目の子供ジュゼッペ・アルフォンソ(Giuseppe Alfonso/1748―1819)である。
ヴォゲーラ侯爵夫人は31歳の時夫と死別し、当時5歳だったアルフォンソ王子が成人になる1768年まで、母親として後見人を勤め、財産を管理していた。
ヴィオッティと遭遇したのは1766年であるから、ジュゼッペ・アルフォンソはもう18歳になっていたが、ヴォゲーラ侯爵夫人は11歳のヴィオッティを、著名な家系の御曹司(おんぞうし)である一人息子の音楽友達としてダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家の邸宅に迎え入れた。
ジュゼッペ・アルフォンソは成人して結婚し、子供を5人儲けた。
その長男で唯一の男児であるエマヌエレが跡を継いで2人の子を儲けたが、いずれも女の子であった。
一人は5歳で死亡し、姉のマリア・ヴィットリア(Maria Vittoria)は最初のイタリア王となったヴィットリオ・エマヌエレ2世の息子、アメデーオ・アオスタ公爵の妻となり、ダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家は消滅した。
ダル・ポッツォ・デラ・チステルナ邸宅、現在のトリノ県庁および歴史図書館が面している通りの名前にマリア・ヴィットリアの名前がつけられて、ダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家を偲んでいる。
マリア・ヴィットリア通りに面した旧ダル・ポッツォ・デラ・チステルナ邸
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