GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(4)ヴァイオリン演奏のピエモンテ派
18世紀前半のイタリアでは、ヴァイオリン曲として人気のあったコンチェルト・グロッソから単一ヴァイオリンによる独奏協奏曲へと移行していく傾向が見られた。
急・緩・急による3楽章構成と急速楽章におけるリトルネッロ形式を使うヴィヴァルディ型独奏協奏曲の様式は18世紀中葉以降広く普及していった。
ジュゼッペ・タルティーニは当時ヨーロッパで最高クラスのオーケストラを有していたパドヴァのサンタントニオ聖堂を活動の中心としてヴァイオリン教育を行っており、弟子にナルディーニ、ロンバルディーニらがいた。
ヴァイオリン演奏のパドヴァ派である。
パドヴァのタルティーニのグループに対抗して北イタリアにヴァイオリン演奏と作曲を行うもう一つの楽派があった。
この楽派はコレッリの弟子のジョヴァンニ・バッティスタ・ソミスによって創始され、タルティーニ派と同じ程度に有名であったが、最終的にはタルティーニ派よりずっと有力な楽派となり、今日ピエモンテ派として知られている。
ピエモンテ派にはソミス、ソミスの弟子のジャルディーニ(Felice Giardini)、プニャーニ(Gaetano Pugnani)、プニャーニの弟子のヴィオッティ、ブルーニ(Antonio Bruni)、ボルギ(Luigi Borghi)などがいたが、ヴィオッティはこのピエモンテ派の最高の音楽家といわれている。
同時代のドイツのヴァイオリニストにはシュターミッツ(Johann Stamitz)、クラーマー(Wilhelm Cramer)が、フランスにはルクレール(Jean-Marie Leclair)とガヴィニエス(Pierre Gavinies)がいた。
ルクレールはピエモンテ派のソミスの生徒である。舞踊家・振付師としてトリノに出向いた際、ソミからヴァイオリンのレッスンを受けている。
18世紀初頭はイタリアのピエモンテ地方、特にトリノにおいて音楽はすばらしい時代であった。
ピエモンテ地方は当時サヴォイア王国統治下にあったが、その宮廷礼拝堂楽団はフィオレ、アントニオ・ジアイと息子のフランチェスコ・ジアイの指導のもと、ヨーロッパで最高クラスの楽団となっていた。
この宮廷礼拝堂楽団の中に作られたヴァイオリン演奏の楽派がピエモンテ派である。
ソミスは1703年にアメデーオ2世によって3年間ローマに派遣され、コレッリの弟子として学んだ。
そして伝統的なイタリア・ヴァイオリン演奏法をローマからピエモンテへと持ち帰った。
その伝統はさらに弟子のプニャーニからヴィオッティへと引き継がれていった。
ソミスは1707年からはトリノの宮廷礼拝堂楽団でヴァイオリニストの長としてサヴォイア宮廷の職についた。
ソミスの弟子には弟のロレンツォ・ソミスやルクレールも含まれるが、最も有名でかつ影響力の大きかったのはプニャーニとジャルディーニである。
二人はヨーロッパ文化の中心地から遠く離れた地方都市トリノの環境と王国の専制主義による不自由さから逃れるため、パリ、ロンドンに渡り、自分たちの才能を大いに発揮した。
ジャルディーニはミラノで声楽、チェンバロ、作曲を学び、ソミスからヴァイオリンの指導を受けた。
1748年に独奏家として演奏旅行を開始し、フランクフルト、ベルリンを廻り、1750年にパリにおいてコンセール・スピリチュエルでヴァイオリン協奏曲を演奏した後、ロンドンに渡った。
そこで30年以上にわたり作曲家とヴァイオリニストとして活躍し、キングズ劇場(オペラ・ハウス)の指揮者として着実な実績を上げ、高い評判を維持した。
ヴィオッティの師匠のプニャーニはトリノ生まれのイタリア人で、サルディニア王の音楽家として有名である。
ピエモンテ派の中心人物で、技巧の優れたヴァイオリニストであり、作曲家でもあった。
イタリアの伝統的なヴァイオリン演奏技法をソミスを通してコレッリから受け継ぎヴィオッティへと伝えた。
プニャーニは1748年にサルディニア王カルロ・エマヌエレ3世により宮廷礼拝堂楽団のヴァイオリニストに任命された。
1749年から約2年間、ローマでチャンピ(L.Ciampi)に対位法を学び、ビーニ(P.Bini)にヴァイオリンを学んだ後、トリノに戻ってヴァイオリニストを続けた。
その後ヨーロッパ各地を訪問して研鑚を積んだ。1754年にはパリのコンセール・スピリチュエルに3度出演し、自分が作曲した協奏曲を演奏した。
このコンサートの成功により、プニャーニはヨーロッパ最高の名演奏家の仲間入りをした。
1767年にはロンドンを訪問し、キングス劇場の指揮者として活躍した後、1770年にトリノに帰り、ソミスの跡を継いで宮廷礼拝堂楽団の第1ヴァイオリニストに任命され、1798年に死ぬまで勤めた。
プニャーニは作曲家としてヴァイオリン曲以外にもオペラ、イタリア式序曲(交響曲の原型となったシンフォニア)、室内楽などの分野で業績がある。
また、1790年にトリノで作曲された組曲『ウェルテル』はゲーテの小説『若きウェルテルの悩み』を題材にした組曲である。
この作品は小説の場合と同様に2部から成っており、いずれも11曲、合計22曲で構成されている。
この曲のCDはイタリアのBongiovanni(BG5028/29)とフランスのOPUS111(OPS30197/198)レーベルから出されている。
このCDの中でアルベルト・バッソはゲーテの小説の中からプニャーニの音楽の意図に最も近い部分を取り出して音楽の間に挿話として挿入し、メロドラマを再現している。
音楽は若きウェルテルの希望に満ちた若々しい気持ちを表現する前半から、結末における悲惨な情景まで的確に歌い上げており、音楽的な描写と小説における劇的な事象とが見事に一致した傑作となっている。
あまり知られていない曲であるが、プニャーニの作品の中で特に注目すべき作品である。
なお、同じゲーテの作品を題材にしたマスネのオペラ『ウェルテル』は1892年に初演されている。
プニャーニの作品のほぼ100年後である。
ピエモンテ派のヴァイオリン奏者たちはイタリア国外で活躍したため、ヴァイオリン演奏のピエモンテ派の名声はヨーロッパで広まった。
当時パリでは伝統あるコンセール・スピリチュエル音楽会に多くの音楽家が集まったが、ピエモンテ派のヴァイオリニストたちも数多く出演していた。
ソミス 1733年に2回 ヴァイオリン協奏曲とソナタ
ジャルディーニ 1750年に4回 ヴァイオリン協奏曲と二重奏曲
プニャーニ 1754年に3回 ヴァイオリン協奏曲
ブルーニ 1780〜81年に5回 ヴァイオリン協奏曲
ヴィオッティ 1782〜83年に27回 ヴァイオリン協奏曲
ヴィオッティは27回のコンサートに出演しており、ヴァイオリニストとしてはコンセール・スピリチュエルでの出演回数が最も多い。
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