GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(2)ヴィオッティ誕生年の誤解
ヴィオッティは1755年5月12日に、ピエモンテ州ヴェルチェッリ県のフォンタネット・ポ村で鍛冶屋の息子として生まれた。
モーツァルトが1756年生まれであるから、1年違いの同年代の生まれである。しかし、生まれた環境は大いに異なっている。
世に名が残っている音楽家、特に18世紀の音楽家の多くは家系が音楽の道に進む環境にあったのに比べると、ヴィオッティの場合は特殊であったといえる。
「コレッリとイタリア・ヴァイオリン演奏の後継者」とか「近代ヴァイオリン奏法の創始者」などと呼ばれる偉大な業績を上げることができたことには驚かされる。
少年時代に良き後援者を得たことがヴィオッティ少年の運命を決めたと言えよう。
さて、ヴィオッティの誕生日であるが、古い文献の多くに誤って1753年生まれと記載されていて、ヴィオッティを紹介する際にこの出生年が使われているものが、わずかではあるが今でも見受けられる。
この誤りの原因は、フェッティの音楽事典やプージャンが書いたヴィオッティの最初の本格的な伝記にヴィオッティの生年月日が1753年5月23日となっていたことが主な原因である。
このため、古い書物は権威あるものでも出生年を誤って記しているものがほとんどである。
フェッティやプージャン以前にヴィオッティの弟子のバイヨや歴史家ジョージ・ホガースがヴィオッティの生まれ年を1755年と正しく紹介していたが、プージャンはこれを否定して1753年を誕生年とした。はっきりした証拠があったに違いない。
なぜこのような誤りが生じたのかは、その後フォンタネット・ポの教区古文書館の資料調査により明らかにされ、1755年誕生説の正しいことが確認された。それは1935年のことであった。
1935年の冬の夜、フォンタネット・ポの教区司祭が郷土史のニュースを調べながら、教区戸籍簿をぺらぺらとめくっていて1753年のジョヴァンニ・バッティスタの出生データが書かれているページの少し後に、この出生者の死亡記録があり、更に少し先の1755年5月12日に、同じ両親からジョヴァンニ・バッティスタの名前を持った別の息子の出生記録があることを見つけた。
当時の司祭長ベルティナッティは、この発見を自分の業績に利用することもなく、直ちに報告してヴィオッティの出生に関する歴史上の誤りを修正し公表した。
フェリーチェ・ヴィオッティとマリア・マッダレーナ・ミラノの夫婦の間には1753年に男児が確かに生まれ、その名前はジョヴァンニ・バッティスタであったが、翌年7月10日に死亡している。
その後この夫婦にはすぐに次の男児が生まれ、前の男児と同じ名前がつけられた。
これらのことは最初の子の1754年の死亡記録と次の子の1755年の出生記録により確認されている。
したがって、ヴァイオリニストのヴィオッティの生年は1755年が正しい。
実際に1753年に「ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ」の出生記録が存在したため、この誤った記録を性急に読んでしまったことが原因で、フェッティ、プージャン以降の誤解が生じたことが明らかにされた。
1935年以降は混乱はないはずであるが、古い文献をそのまま引用した書物やCDの解説文などには今でも誤りが見られる。
なお、生年月日の誤りを指摘したのはチャペル・ホワイトやレモ・ジャゾットであると書かれた解説書もあるが、それは正しくない。
象徴的な鐘塔で有名なフォンタネット・ポのサン・マルティノ教会には教区戸籍簿が保存されているが、そこにヴィオッティの出生記録が保存されている。
1755年の出生記録のうちの一ページのコピーのうち、線で囲んだ部分がヴィオッティに関する記述である。
「ヴィオット・ヨハネス・バプティスタ・ヴィルエルムス・ドミニクスはフェリチス・ヴィオッティとマグダレナ・ミラノの息子として昨日8時に生まれた。
洗礼は1755年5月13日に行われた」とある。
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